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天河版あゝ野麦峠
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ユーリ結核に
あゝ野麦峠

ユーリ結核に

 シャラがキックリと自殺し、ハディが直らぬ病を苦に天竜川に身を投げ、
ユーリたち飛騨の娘の心はズタズタであった。
 しかし彼女たちに、悲しみに打ちひしがれている暇などなかった。
 糸値が大暴落したのである。諏訪湖周辺の製糸工場の中にはつぶれる工場も
出たほどであったが、なんとかホレムヘブの製糸工場は銀行から借金をして
一命を取り留めたのであった。
「ラムセスや、お前が銀行家の娘アッダ=シャルラトと結婚して
よかったよ。おかげで金が借りられる」
「そうだろう。ホレムヘブ父上。貧しい糸引き女なんかと一緒にならなくて
よかったよっ!」
 分かってはいるが、ユーリはホレムヘブとラムセスの会話を聞いて、心臓にグサリと
針金のように太い針が刺さったような感じがした。
「おねーさま、なんだか顔色が悪いわ。大丈夫?」
 数日前から頻繁に咳をするユーリをアレキサンドラは心配した。
「大丈夫よ。ちょっと風邪ひいただけ。それよりも工場は今が大変な時期だよ。
これからガンガン働かされるだろうから、体調崩さないようにしなくっちゃね」
 アレキサンドラにやさしく言った後にゴホンゴホンと数回咳をした。
 体調を崩しても医者になんかにはかかれない。稼いだお金が減るから満足に
薬だって飲めない。ハディの自殺で身にしみてわかったように、工女は
病気になったらおしまいなのだ。
 工女の待遇は決してよいものと言えなかった。
糸引きの機械の繰釜から出る熱湯は煮えたぎり、蒸気で室内は暑くむっとする。
病原菌が発育するのに良い環境であった。
食事以外には満足な休憩も取らず数十時間働きっぱなし。白い御飯だけで
満腹にさせられ、肉や魚のエネルギーとなるものは殆どとらせない。
そんな環境の中で病気にならない者のほうが不思議であったのだ。

 風邪だと思っていたいた咳は一週間たっても二週間たってもおさまることはなく、
体のだるさもだんだん増してきた。熱は測らないとわからないが、多分平熱以上に
あると思われる。だが、寝込むことなどできない。ユーリは飛騨を代表する百円工女。
シャラとハディがいなくなった今、みんなを先導していかなければならない。
ユーリは飛騨の工女をまとめる大事な姐さん的存在であったのだ。
 続く咳、体のだるさ。……もしかしたら肺病にかかってしまったのでは?
そう頭をよぎることが幾度かあったが、自分は肺病になどかかっている暇はない。
肺病になんかに罹っていたら、工女たちに迷惑をかけるのはもちろんのこと、
飛騨の家族にだって迷惑をかけることになるのだ。
咳も風邪がちょっと長引いただけだし、体のだるさもきっと疲れがとれないだけだ。
もし万が一これが肺病の咳だったとしても……誰にも知られてはならない。
工女は病気になったらおしまいなのだ!
 ユーリは病気を吹き飛ばそうと、気合いだけはしっかり入れて、
過酷な労働の中、飛騨の工女たちを引っ張って必死にがんばっていた。
 しかし、ユーリの心意気とは裏腹に、ある日いつものように糸を引いていると
焼けるような熱いものが胸に込み上げてきた。咄嗟に首にかけている手ぬぐいを
口にやると、真っ白な手ぬぐいが赤く染まった。
 血を吐いたのである。――肺病だ! そう思ったが、ユーリは血のついた手ぬぐいを
そっと隠し、そのまま仕事を続けた。

「ユーリおねーさま。本当に顔色がお悪いわ。この頃めっきり痩せましたし……。
今日一日くらいゆっくりお休みなさったらどう?」
 アレキサンドラが心配そうに言った。
「ちょっと、熱があるわ! やっぱり休んだ方がいいわよ!」
 青白い顔をしているユーリの額に手を当てたリュイが叫んだ。
「大丈夫。ちょっと微熱があるだけ……。お休みなんてとったら
ナキア検番に後でどんな仕打ちされるかわからないもの。仕事にいくよ!」
 本当はだるくて仕方がなかったが、みんなに心配をかけるわけはいかなかった。
ユーリはいつものように工場に向かった。
 みんなには元気に振る舞ったつもりであったが、やはり体は辛かった。
頭がぼうっとする。咳も頻繁に出る。糸を引く手も間々ならず、
百円工女と謳われるユーリであるのに、何度も何度も糸が切れた。
隣で糸を引くアレキサンドラが頻繁に気遣ったが、ユーリは「大丈夫」と
無理やり笑顔を作っていた。
 12時、正午。お昼のサイレンがなった。
 機械を止めてみんな一斉に食堂へ向かった。
「ユーリおねーさま。お昼食べに行こう!」
「う、う……ん。ちょっと先に行ってて。キリのいいところまでやちゃおうと
おもうから……」
「でも……」
 アレキサンドラは体調の悪いユーリを気遣って先に行くことをためらった。
「先に行って私の場所もとっておいて。大丈夫よ」
「本当に……大丈夫ですの……? じゃあ、先に行ってますわ!」
 笑顔を投げかけられたアレキサンドラは、その笑顔に安堵し、
先に行くことにした。
 アレキサンドラを先に生かせた理由は、糸をキリのいいところまで
引きたいというわけではなかった。本当はすぐに立てなかったのだ。
頭がぼうっとして今すぐに立ち上がったら絶対に倒れてしまう。
そう確信があった。しばらく休んで、それから静かに行こうと思ったのだ。
 相変わらず咳は収まらない。咽喉が真っ赤なことが口の中を鏡で見なくとも
わかった。さあ、早くみんなの所にいかなくっちゃ。お昼ごはんを食べて、
体力つけて働かなくっちゃ……。
 ユーリはそう強く思ったが、次の瞬間、目の前が真っ暗になり意識が遠のいた。
ユーリの口からは血が流れ出し、そのまま糸引きの機械の上に倒れた。
お湯の張ってある繰釜には蚕のサナギと一緒に真っ赤な血が浮いていた。

「きゃああああ、ユーリおねーさまが!」
 いつまでたっても食堂にやってこないユーリを心配して、工場に戻った
アレキサンドラは悲鳴を上げた。
 繰釜の中に血を吐き、機械の上に倒れていたのである。
 ユーリの咳は風邪ではなく肺病だった。当時不治の病と言われる結核だったのである。
結核と分かった途端、ユーリは寄宿舎の一番離れた小さな部屋に隔離された。
すぐに飛騨の家族にユーリを迎えに来るように電報が打たれた。
どんなに腕のいい工女でも病気になったらおしまいで、まして結核となると
湿っぽい部屋に押し込められ、人気のない寂しい部屋で一日中寝かされたのだ。
工場長や検番はもちろんのこと、結核になった工女を見舞いになんてくることはなく、
病気を恐れる工女たちもユーリに近づこうともしなかった。
 それでもリュイやアレキサンドラはユーリが心配で心配で、
仕事が終わると必ずユーリのところへやってきた。
「ユーリさま。卵を頂いてきました。これを食べて早く元気になって下さいね」
「おねーさま、病気はきっと治りますわ! そしてまた一緒に飛騨に
帰りましょう!」
 やせ細ったユーリを見て、アレキサンドラもリュイも涙をぐっとこらえ
励ました。ユーリはかすれた声で「ありがとう」というと、目を瞑ってしまった。


あゝ野麦峠

 妹ユーリが、結核との連絡を受けた飛騨のカイルは、急いで工場へ迎えに行く準備をした。
野麦峠をはじめとするいくつもの峠を越えて、諏訪湖湖畔のホレムヘブ岡谷製糸に着いた。
 大事な妹のいる部屋に案内されると……。
 ユーリのいた部屋は昼間のはずなのに薄暗く、空気は重く沈み、ジメジメとしめっぽかった。
何もない殺風景な小さな部屋の真ん中に蒲団がひいてあり、そこにユーリは
横たわっていたのだ。
「ユーリ、大丈夫か?」
 蒲団にそっと近づくと青白い生気のない顔でユーリは兄を見た。
「あ……兄さん……」
 弱弱しい妹の声を聞くとカイルはぞっとした。かつて百円工女と言われ、
黒い瞳がキラキラとして活発な少女の面影はどこにも残っていなかった。
もとから細身なのに更にやせ細り、顔色は死人のように真っ青だった。
こんな状態で数日前まで働いていたのかと思うとカイルは驚いた。
「もう大丈夫だ。迎えにきたからな……」
 カイルがやさしく言うと、ユーリは病気になってごめんなさいと涙を流した。
そんなことない、そう言い返そうと思ったが、カイルはユーリの枕もとで
ガタガタと揺れている空き缶に気づいた。缶にはフタがしてあった。
「これ何だ?」
 カイルはフタを開けて覗きこむと、中には大きな青カエルが一匹いた。
「あ、それ……。アレキサンドラに頼んでとってきてもらったの。
青カエルを1匹丸呑みするとこの病気は治るんですって……」
 医学的にはまだまだ結核という病が未開分野のこの時代、貧しい庶民たちは
病気について全く無知、抗生物質もなく特効薬もないので、
奇跡と秘薬に頼るしかなかった。「青カエルの丸のみ」以外にも
「鶏の生血を飲む」「一家で石油を飲む」「ウグイスやマムシの黒焼き」
その他に「サルの頭」「クマの肝」「人間の肝」が効くとの噂もあった。
「青カエルなんて飲まなくていい! ユーリとにかく帰るぞ!」
 カイルは青カエルのはいった缶をユーリから遠ざけた。
 その後カイルは工場の事務所に呼ばれていたので、そちらに行くことにした。

「ユーリは今までよく働いてくれたが、病気になった者を工場へ置いておく
わけにはいかないからな……。まあ、実家に帰ってゆっくり休めば直るだろうから……」
 事務所には工場長の息子ラムセスがいた。実家に帰れば直るからと
言われたが、ユーリを見た限りじゃ重症で直る見込みもないように思えた。
「どうしてあんなになるまで働かせたんだ! 聞けば工場の労働は
毎日十数時間に及び、病気になっても無理やり働かせたと言うではないか!」
 カイル怒ったが、ラムセスはビクリともしなかった。
「ユーリが自分で働いたのさ。こっちには関係ない。それよりも金だ。
良い糸を引く百円工女として今まで働いてくれたからな……」
 ラムセスはカイルの前に乱暴にお金を出した。
妹をあんなになるまで働かせて、ラムセスを殴ってやりたい衝動にかられた。
しかし、他の飛騨の工女たちの手前、社長の息子を殴るわけにもいかず
ぐっとこらえた。
 無造作に出されたお金を取るのも嫌だったが、飛騨に帰ってからの
ユーリの治療を含め、お金はやはり必要なもので妹のために兄はしぶしぶお金を取った。
 カイルは準備してきた背板に板を打ちつけ座蒲団を引き、その上にユーリを
後ろ向きに座らせ、ヒモで体を結えて工場から背負って出た。
 ユーリの仲間の工女たちは仕事中で、誰の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。
カイルは悲しさ悔しさに声をあげて叫びたい気持ちであったが、そこをぐっと
こらえて、ただ下を向いて歩き続けた。背負われたユーリは工場に向かって合掌をしていた。
 その時、工場の小間使いティトが出てゆくユーリを見つけ、追ってきて声をかけた。
「ユーリさん、がんばってね。また元気になって戻ってきてね!」
「ティト、今までありがとう」
「必ず元気になってね。また戻ってきてね。気をしっかり!」
 ティトはユーリを涙を流して見送っていた。
 2人は互いに姿が見えなくなるまで合掌をしていた。カイルはやっと
この小間使いティトの言葉に救われたような気がした。工場に来てはじめて聞く
人間らしい言葉だったからである。
 工場を出てカイルは飛騨に帰る前に入院して、少しでも良くなってから
飛騨に帰ろうとユーリに勧めた。
だが、ユーリは一日でも早く早く飛騨に帰りたいと言って聞かず、
仕方なくそのまま飛騨に帰ることにした。
 途中、ユーリの病気を理由に宿泊所で宿泊を断られたこともあった。
不治の病、結核に対する世間の目は冷たく、2人の通った後に塩を
まかれることも何度もあった。カイルは妹のために、ただ飛騨を目指し
黙々と歩き続けた。
 野麦峠にさしかかった。最大の難所と言われる野麦峠。峠の頂上に行けば
故郷飛騨の山を見渡すことができる。カイルは「もうすぐ飛騨が見えるぞ」と
何度も励ましながら峠を登っていった。

 昼下がりに野麦峠の頂上に着いた。
 ユーリを一番見晴らしの良いお地蔵様の社のある場所まで連れて行って
大きな岩の上に座らせた。
 ユーリの黒い瞳には緑の美しい飛騨の山の稜線が映った。美しい故郷の山である。
飛騨の方向から吹いてくる風はやさしくユーリの頬をくすぐっていた。
 朦朧とする意識の中で、ユーリは黒い瞳を見開き故郷の山を見渡した。
 軽く峠の空気を吸い込んだと思うと……
「ああ……飛騨が見える……」
 そう静かに言った。
 ユーリは黒い瞳を瞑り、両手を合わせて、飛騨の山に向かって合掌した。
両瞼からは一筋の涙がそれぞれ頬を伝わり顎まで到達すると、ポタリと地面に落ちた。
「ユーリ……」
 カイルは妹の涙を親指でそっと拭いた。
「もうすぐだぞ、もうすぐ家に帰れるからな……」
 カイルはそう励ました。
 今まで殆ど何も食べていなかった妹にソバがゆでも買ってこようと、
ねねのお助け茶屋に向かおうとユーリに背を向けたほんの数秒後、
バサリ、何かが落ちた音がした。
 驚いて振り向くと、ユーリは彼女の涙を吸い取った地面に、力尽きて倒れていた。
「ユーリ、どうした? しっかりしろ!」
 カイルが驚いて抱き起こした時にはもう事切れていた。
 飛騨の山を一目見たユーリは安らかな顔で永遠の眠りについていたのだ。

 野麦峠のお地蔵様はそんなユーリの最後をじっと見守っていた。



おわり


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 天河版野麦峠、どうだったでしょう? あゝ野麦峠は私が高校の日本史に時間に
ビデオを見てジーンときた作品です。ある日突然、ふとこの野麦峠のお話を
思い出して天河版にしてみようと思った次第です(^^ゞ。
山本茂美の本も参考にしましたが、日本史の教科書にも何か書いてあるかなぁと
思い開きましたが……「富岡製糸工場などの生糸は外貨を稼いだ」
その一行しかない! ええ! こんなにも悲話があるのに教科書では
たったの一行? とはっきり言って驚いてしまいました。
歴史を動かした大事件というわけじゃないから、載ってないのは当然かも
しれないけど、今ある自分たちの生活は、色々な歴史の上に成り立ってリわけで、
それを知るためにも歴史って大事なのかなぁと思いました。
過去を振り返ってどうする? っていう意見もあるけど、過去の過ちや
悲しみを十分に理解しておけば、今みたいなテロも戦争もなくなるんじゃないかなぁ
と思います。
 この作品で出てきた肺病=結核ですが、本当に戦前では結核がたくさんあったんですよね。
私は病院の検査室で肺機能検査をやっているので、過去に結核をやった方に
しばしばお会いするんですけれど、肺活量を測ると結核をやったかって
すぐに分かるんです。結核に罹ると結核菌に冒された部位は壊死して肺の機能を
果たさなくなり、その分肺容量が減ってしまします。それよりも当時抗生物質を
使えなかった人たちは胸郭形成と言って肺をつぶして直してるんですよね。
そういう方って、肺活量予測値の50%くらいしかないから、「お胸のご病気なさったこと
ありますか?」と聞くと、「はい、若い時に」という答えが返ってきます。
 抗生物質が登場して結核は不治の病ではなくなりましたが、今はその抗生物質の
耐性菌が問題になってますよね。人間が強い薬で結核菌を攻撃したから
菌が変異して、薬の効かない菌になってしまうというものです。
院内感染のMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)もそうですが、強い薬を開発しても
菌も負けずにどんどん強くなってゆく……。言ってみれば現代病ですよね。
消滅する病気もあるけど、更にパワーアップして新しい病気も出現する。
まあ、人間も、病原菌も生きてるんだから仕方ないんだけどねー。
……と、かーなーりー珍しく真面目に語ってしまいました。
今は10月だけど雪が降ったらごめんね(笑)。



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