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天河版あゝ野麦峠
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ラムセスとユーリとウルスラ
ノウミ峠
里帰り


ラムセスとユーリとウルスラ

「ユーリちゃぁ〜ん、一回くらいデートしてくれよ〜。今度、仕事が休みの日は
いつだい? ちょっとお茶するだけでもいいからさ、デートしてくれよぉ〜」
 毎朝恒例、ラムセスの女口説きが始まった。今のターゲットは飛騨の工女ユーリ。
相手にしてくれなかったり、相手にしてくれてもラムセス本人がすぐに飽きてしまうため、
コロコロとターゲットは変わるのであった。
 ユーリはそんないい加減な男が大嫌いであった。そのため
いくら誘われてもユーリは首を縦に振ることはなかった。
「申し訳ありませんが、次の休みは予定があるんです」
「予定? 何の予定だ? 他の男とデートか?」
 ラムセスのオッドアイはキラリと光った。
「違います! 次の休みはゆっくり休む予定なんです。そもそも休みとは
日頃の仕事の疲れをとるためのもの。あなたの相手をしている暇などありません」
 ユーリは淡々と言った。
「休む? 何だよそれっ! 若さってのは一瞬なんだぜ! もっとアクティブに行こうぜ!
休みの日くらい羽伸ばさなくてどうするんだよ! つまんないじゃないか!」
「つまんなくなんかないわ」
「つまんねーよっ! お前は俺のように薔薇を育てる趣味を持っているわけじゃなし、
休みにデートしなければも趣味も何もない。そんな人生つまんねーよ!」
 ラムセスは少し声を大きくする。
「趣味ならあります……」
 チラリとラムセスの顔を見て答える。
「な、何だ? どんな趣味だ? 百合を育てる趣味か?」
「いいえ」
 はじめてユーリは糸を引く手を止めてニッコリと笑ってラムセスの顔を見た。
「私の趣味はこの工場でたくさん働いて、いっぱいお金を稼いで飛騨の
家族を喜ばせることです。だからつまんなくなんてないわ」
 これにはさすがのラムセスも返答のしようがなかった。


 一日の仕事が終わり、工女たちは宿舎にぞろぞろと帰って行った。
ユーリは後片付けの当番だったので、他の工女たちよりも少し長く
工場に残っていた。
「あーあ、今日も疲れた。さっさと休もう……」
 仕事が終わったユーリは、疲れた足取りで工場と宿舎を結ぶ渡り廊下を一人で歩いていた。
 すると背後から大きな手が被さった!一つの手はユーリの口をふさぎ、
もう一つの手はユーリを抱きかかえた。
「ふぐぐ! 何……するの!」
 抱きかかえられた腕は蜂蜜色でその体からは薔薇の香りがした。
薔薇の香りのする男、思い当たるのは一人しかいない。この工場の長男ラムセスである。
 そのままユーリは渡り廊下から一番近い物置部屋に連れて行かれた。
「ちょっと何すんのよラムセス! こんなところに連れてきて!」
 急に連れ去られたユーリが怒るのも聞かずに、ラムセスは強くユーリの両肩をつかんだ。
「ユーリ、俺はどうしてもお前が欲しい。お前となら結婚してもいいと思ってる。
お願いだ。どうか俺のものになってくれ!」
 ラムセスは嫌がるユーリを強く引きつけ、彼女の唇に吸いついた。
「うっ! 何するのよ! 冗談はやめてよっ!」
 ――バシン!
 ラムセスの左頬に平手が飛んだ。ユーリもはあはあと息を切らせている。
「冗談なんかじゃない! 本当に、本当にお前となら結婚してもいいと思ってる。
お前だって糸屋の嫁になれるんだ。糸引き工女の憧れだろう。もう一日に何十時間も
働かなくたっていいんだぜ! それとも他に誰か好きな男がいるのか……?」
 ラムセスは再びユーリの両腕をつかみ黒い瞳をじっと見つめていった。
「好きな人……」
 黒い瞳の奥でサッと兄カイルの顔がかすった。ラムセスに抵抗するユーリの力がすっと緩む。
「いないならいいだろ! 俺のものになれ! 楽させてやるから……」
 言い終わらないうちにラムセスはそのままユーリの胸元に飛び込んできた。
強く抱きしめられ、抵抗してもか細いユーリの力ではびくともしなかった。
「いやあああああ」
 ――ガラリ
 物置部屋の戸が突然空いた。二人は戸口を見るとそこにはウルスラが立っていた。
「ウルスラ……」
 ウルスラは無言かつ無表情でユーリとラムセスを見つめていた。
 ラムセスの力がスッと緩まった。すかさずユーリは彼から離れた。
今しか逃げるときはない! そう思い、ユーリは戸口から出て行った。
出て行く前、一瞬ウルスラと目が合ったが、とにかくその場から逃げることに必死で
彼女がどう思っているかなんでどうでもよかった。
 必死に廊下をかけて行く中、襲われた物置部屋の戸が静かに
パタンと閉まる音を微かに聞いた。


 ユーリは肌けた着物を直して、何もなかったように寄宿舎に帰った。
疲れて蒲団に入っている工女も多く、スヤスヤともう眠りに落ちていた。
「あら、いつもより遅いのね。後片付けが長引いた?」
 まだ蒲団に入っていないハディがユーリに話し掛けた。
「うん、ちょっとね……」
「なんか…、元気ないよ。どうかした?」
 ハディはうつむいてたユーリの顔を覗き込んだ。
「ううん、大丈夫よ、ちょっと疲れてるだけ。ぐっすり眠れば平気よ!」
「そう?」
「うん。もう私寝るわ。おやすみハディ」
「おやすみ……」
 ユーリは目を瞑って、さっきあったことを忘れて一生懸命眠ろうとした。
だが、ラムセスの強い力の感触がまだ腕や肩に残っており、何度も寝返りを打った。



ノウミ峠 

 ラムセスはあきらめたのか? それからユーリを口説きに工場へ来なくなった。
ユーリが避けていたせいもあるが、通りすがっても彼から声をかけてくることすらなくなったのだ。
 ――やっぱりあのときのラムセスの言葉は本気じゃなかったんだ。
真剣そうに見えたけど、やっぱり結婚してもいいだなんて……本気じゃなかったんだ。
良かったあんな男に騙されなくて……。
 ユーリはいいかげんなラムセスにしばらくの間イライラしたが、
数ヶ月経つとそのイライラもなくなった。あんな男のことなど、どうでもよくなったのである。

「ねえ、ちょっと知ってる?」
「うそー!」
「それって……すごい……」
 糸引きの機械が騒々しく音を立てている中に、工女たちの驚嘆の声が入り混じっていた。
ある噂話が伝言ゲームのようにして工女たちの間を伝わっていたのだ。
「えっ! それ本当なの? シャラ」
「ええ、姉さん、伝わってきた噂ではね。現に……いないじゃない……」
 3姉妹がヒソヒソと話をしていた。そこへユーリが何の話か問いかける。
「ねえ、さっきから騒がしいけどどうしたの? なんかあったの?」
 ユーリは糸を引くてを止めずに3姉妹の顔を覗き込んだ。
「ええ、ユーリさま! 実はですね!」
「リュイ! 余計なこと言わなくていいわよ! どこまで本当かわからないんだから!」
 ハディがきつく止めた。
「いいよ、どんな話だって驚かないよ。教えてリュイ!」
 3姉妹は顔を見合わせてゆっくりと話した。
「あのですね……ウルスラが……工場をやめるって……、何でも妊娠して
故郷の飛騨に帰るって……」
「妊娠!」
 ユーリはいつもより一オクターブ高い声をあげた。
「妊娠って……誰が父親? 工場内部の……人ってことになるわよね」
 3姉妹は再び顔を見合わせた。言っていいかどうか迷っている表情である。
「相手は……どうもラムセスさまらしいんです……」
「えっ!」
 プチン! ユーリの引く糸が切れた。カラカラと糸車は空回りをはじめた。
 以前、散々ラムセスがユーリに言い寄っていたことは3姉妹もよく知っていた。
ユーリはラムセスに関心はないようであったが、なんとなく言いにくかったのだ。
「ラムセスとウルスラが……」
 ユーリは呆然として呟いた。
「それで……」
 話を続けるリュイの声でユーリははっと我に帰る。
「ラムセスさまの両親は、お金は出すから妊娠した子は堕ろせって言ったらしいの。
でもウルスラは子供を生むって言い張って聞かないらしくて、生むなら工場を
辞めて出て行けって。子供も一人で育てろって……。もちろん結婚なんて……」
 リュイは首を左右に振った。
「何それ……ひどい……」
 ラムセスとウルスラがそういう関係にあったこともショックだったが、
妊娠したウルスラに対する対応のほうがもっとショックだった。
 現に今、ウルスラの姿は工場になかった。いつも彼女の使う機械は動いていない。
それに最近、気分が悪くて席を外すことが多かった。ユーリといつもどちらが
良い糸を引くか競っていたのに、最近の糸目検査では、ウルスラの成績は悪く、
ユーリとは大きな開きがあったのだ。どうしたのだろう? と思っていたが
そういうわけだったのだ。
「ウルスラ、飛騨に帰るって……野麦峠を越えるってことよね。いくら今は
雪のない季節だからって、身ごもった体で野麦峠を越えるなんて無理よ!」
 ユーリはガタンと席を立ち上がった。
「くぉら! そこ! 何をべちゃべちゃ喋っておる! 働かんかーい!」
 検番ナキアの雷が3姉妹とユーリの間に落ちた。
 ユーリたちはサッと仕事に戻った。


「まったく、あんたはうちのかわいいラムセスちゃんの子を妊娠するなんて!
とんでもない女だよっ!」
 工場のおかみ、ネフェルティティがウルスラに冷たく当たる。
ウルスラは歯を噛みしめてその場に正座し、口を一文字に結んで厳しい表情をしていた。
「既成事実作ったからって、あんたとうちのラムセスちゃんを結婚なんて
させないからね。何で糸引き工女なんかと……飛騨の貧農の娘なんかと……」
 ウルスラは何も言わずにただ口を一文字に結んでいるばかり。
「子供は堕ろせって言ってるだろ。そうすればお前もこの工場で、
今までどうり働けるんだ……」
 一番の原因のラムセスがやっと口を開いた。
 ウルスラはやはり何も言わずに首を左右に振る。
「じゃあ、やっぱりこの工場から出て行ってもらうしかないね。あんたは今まで
よく働いてくれたから金はやるよ。ほら、持ってお行き!」
 ネフェルティティはお札を数十枚わしづかみにしたと思うと、
正座をしているウルスラに向かって投げた。ウルスラの頭からしわくちゃのお札が
ひらひらと降ってきた。
 相変わらず口を一文字に結んでいる唇は震えだし、大きくパッチリとした目には涙が溢れ出した。
ウルスラは立ち上がると同時に、身をひるがえし一枚のお札も取らないで
工場を後にした。

 それからウルスラは何度も涙を拭いながら故郷の飛騨に歩みを進めた。
季節は初夏。山の空気は心地よく、雪の峠越えと違って道はわかりやすかった。
 ――とにかく飛騨に帰ろう。あの工場から1歩でも離れたい。
 そう思う一心でウルスラは身の重い体で長い長い峠道を歩き続けた。
 工場を立って3日後、飛騨への最大の難所、野麦峠にさしかかった。
 ここを越えれば飛騨はもう少しだ。峠の頂上に立てば、故郷の飛騨が見渡せる。
さあ、もう少しだ! がんばろう!
 ウルスラは野麦峠の急な斜面を重力に逆らって、息を切らせながら必死に登った。
晴れわたった初夏の空。峠道には新緑が美しく小鳥がさえずる声が耳に心地よく響いていた。
しかし、身重な体にはこの峠の斜面は一歩一歩苦しく、呼吸もだんだん速く短くなってきた。
めまいがしてきた。時々お腹もしめつけられるように痛くなる。
 ――いけない! お腹が痛くなってきた。どうしよう。でも頂上まで
あと少しだ。頂上まで行けばねね婆のいるお助け茶屋がある。そこまで行けば……!
 ウルスラはそう思ったが、耐えられぬ痛みにその場にうずくまり、脇道に入って
野麦峠の「野麦」と言われるクマザサの茂みの中に身を沈めた。
 ――苦しい、痛い! 痛い! どうしよう、どうしよう。このままじゃ!
「あああああー!」
 野麦峠にウルスラの叫びが響き渡った。
 あまりの苦しさにウルスラはクマザサの中で気絶してしまい、体は血によごれ、
その横には赤い塊が投げ出されていた。ウルスラは朦朧とした意識の中で、
産み落とした嬰児と一緒に死ぬことだけを考えていた。


 次にウルスラが意識を取り戻したの場所はやわらかい蒲団の中だった。
「おお、気づいたかぞぇ〜」
 ウルスラの視界に醜い婆の姿が飛び込んだ。野麦峠のお助け茶屋のねね婆である。
「あたし……」
 ウルスラは呆然とねね婆の顔を見つめる。
「もう安心していいぞ。お前は助かったんだ安心しろ。ここで体力が回復するまで
いくらでもゆっくりしていけ。今は工女の峠越えの季節じゃなし、暇だからな……」
 しわくちゃの手でねね婆はウルスラの額をなでた。
 ウルスラはふっと我に帰った。
「ちょっと待って。あたしは助かったって……。赤ちゃん、赤ちゃんは……」
 ねね婆は首をゆっくりと左右に振った。
「お主の赤子は峠の地蔵様のところに葬っておいてやったからな。あとでよぉ〜く
お参りしておけ……」
「うっ、うっ、ヒックヒック。うううううう」
 ウルスラはヒクヒクと声をあげて泣き出した。
「泣け! ここでは気のすむまでいくらでも泣いていいからな。どんな理由があったか
知らんが、野麦峠を身重の体で越えるなんて無茶な話だ。野麦峠とはノウミ峠とも
言うんじゃ。この峠を越えようとした妊婦は、みんな野に産み落とすってことじゃ。
とにかくお前は助かったんじゃ。それだけでも幸運に思え」
 ウルスラの悲しみと怒りの混ざった涙は、しばらく止まることはなかった。


里帰り

「ただいま! 父さん、母さん、カイル兄さん!」
「おかえりユーリ! よくがんばったねぇ。よく働いたねぇ」
 工女たちの年に一度の里帰り。年の暮れ。厳しい雪の中、野麦峠を越えて工女たちは飛騨に
帰ってきた。12月中旬に工場の仕事は終わり、翌年2月中旬までの
糸引き工女にとっての骨休めの期間である。1年間働いた金を故郷へ持って帰って
家族を喜ばすときでもあった。
「聞けばユーリは百円工女だと言うではないか! 我が家の名誉だぞ。よくやった」
 ユーリの父は娘の頭をグリグリと撫でた。
 この当時の百円といえば大金である。百円あれば軽く2軒家が建ち、おつりも
くるほどであったのだ。ユーリだけでなく、他の工女たちも飛騨の農村では
考えられないほどの大金を持って帰ってくるので、
 ――暮れに工女の持って帰ってくる金で年が越せる
 と言われるほどであった。
「ユーリ……よく頑張った。辛かったろう……」
 やさしくユーリの肩に手をかけたのは兄カイルであった。
「ううん。父さんや母さんがこんなにも喜んでくれるんですもの。全然辛くなんてなかったよ!」
 ユーリは兄の顔を見て嬉しそうに言った。
 久々に見た兄の顔は懐かしかった。糸引きに行く前と全く変わらぬ美貌……じゃなかった
ハンサムで、兄の顔をずっと見ていたい気持ちにかられた。
「峠越えも大変だっただろう。ほら、手がこんなにあかぎれだらけで……」
 カイルは妹の手をさすった。久々に触れる兄は温かかった。こんなにも自分を
心配してくれる兄がいて、自分はなんて幸せなんだろうと思った。
「峠越えした工女はみんな手足はあかぎれだらけだもの。私だけじゃないから大丈夫よ!」
 糸引きは過酷な労働だけど、こうやって家族の喜ぶ顔を見ると今まで辛かったこと
など吹き飛んだ。また来年も頑張ろう、そして家族にいっぱい喜んでもらうんだ!
素直なユーリは笑顔の両親と兄を見て思った。


 飛騨の家で年を越し、家族のもとで幸せに暮らすユーリであったが、
一つだけ気がかりなことがあった。
 ラムセスにはらまされ、工場も追い出されたウルスラのことである。
聞けばウルスラは身重な体で野麦峠を越えることができず、流産したという。
その後ウルスラはどうしているのであろう? 工場から帰ってきた工女たちの
前には絶対に姿を見せなかった。どうしただろう?
 もしあのとき……ラムセスにそのまま襲われたとしたら、自分がウルスラのように
なっていたのかもしれないのだ。そう思うと、ウルスラのことを放っては
おけなかった。
 ユーリはウルスラの家へ行った。自分の家と同じく貧しい農家である。
ウルスラのほうが弟妹が多い分、生活が苦しそうだ。
 するとウルスラがちょうどよく水汲みに出てきた。いつもと変わらぬ美貌であった。
「ウルスラ……」
 ユーリはそっと声をかけた。
 振り返ったウルスラは一瞬ギョッとした表情をしたが、すぐにもとの落ち着いた顔に戻った。
 二人の間にしばらくの間の沈黙が流れる。その沈黙を破ったのはウルスラであった。
「一体なあに? あたしに何か用?」
「いえ……ちょっと……元気かなって思って……」
 小さな声でユーリは言った。
「ふーん、心配してくれてるんだ」
 ウルスラは口元を少し歪ませた。またもや2人に沈黙が流れる。しかしその沈黙の間、
彼女は考えていた。言おうか、どうしようか……聞いてもらおうか……と。
「……あたしね……子供流産しちゃったの。野麦峠を越えられなかったのよ……」
 ウルスラは声を落ち着けて静かに話した。
「知ってる。聞いたわ……」
 工場でウルスラはユーリのことをライバル視していたため、いつもツンとして
話し掛けにかった。今までまともな会話などしたことがなかったため、ユーリは
今もどう話したらいいかわからなかった。
「あたしね……結婚するんだ。幼馴染のカッシュとね……」
 ウルスラはユーリの顔を見ないで、頬をほころばせなから言った。
「えっ!」
 ユーリの黒い瞳が見開いた。
「思えばあたしってバカよね。糸屋の息子の嫁になって、玉の輿の乗ろうと思ってた
なんて……。だから工場でも誰よりも良い糸が引けるように、
誰よりも綺麗でいるように必死だった。糸屋の嫁になって楽をしたいと思ったのよ。
飛騨の貧しい農村で、いくら働いても楽にならない暮らしなんてまっぴらだった。
いつもお腹を空かせた妹や弟がたくさんいて……、ひもじい思いなんてごめんだった。
だからいっぱいお金のある人と結婚したいと思ったのよ」
 ウルスラは汲んだ水桶をその場に置いてゆっくりと歩き始めた。
ユーリもそれについてゆく。
「糸引きやめて、飛騨に帰ってきて……。糸引きの労働にも耐えられない
根性のなしの娘だって親に罵られると思ってたわ。
本当の理由なんて言えなかったから、怒られるの覚悟で、何も言わずに家に帰ってきたの。
なのに……父と母はあたしの顔を見ると『よく帰ってきたね』って嬉しそうに笑いかけたのよ。
お金も1銭も持って帰らなかったのに、帰ってきた理由も聞かないで
やさしくあたしを迎えてくれたの。弟や妹たちだって「おねえちゃんおかえり」って
嬉しそうに慕ってくれたわ。家族の笑顔を見たら、もう涙が止まらなくなって……
なんて自分はバカなことしたんだろうって……やっとわかったの」
 ユーリは涙に濡れた美しいウルスラの横顔を見て、心を打たれた。
容姿が綺麗だというんじゃなくて、このとき本当にウルスラは綺麗だと思った。
「家族に囲まれて毎日を過ごしてると、幼馴染のカッシュがよくあたしを訪ねてきてくれたの。
久しく話してなかったけど、カッシュはやさしくあたしの話を聞いてくれて……
しばらくすると結婚しようって言ってくれて……。もちろん工場であった今までのこと話したわ。
でも、話したところでカッシュは全部知ってたって……承知の上で結婚申し込んだって……」
 そこまで話すともはやウルスラは涙で言葉にならなかった。しばらく涙が
収まるのを待って再び話し始めた。
「あたし……結婚するなら絶対にお金持ちの人って思ってたの。こんな農家で
貧乏な暮らしはもうまっぴらだった。カッシュは知ってのとうり飛騨の村の
農家の息子で、決してお金があるわけでも財産があるわけでもないわ。
うちと同じくらいの貧乏よ。でも……貧しくても、カッシュと一緒なら
耐えて行ける。本当に好きな人と一緒にいられるならお金がなくたって
貧しくたっていいと思えたの。……笑っちゃうでしょ。このあたしが
お金より愛を取っただなんて。滑稽よね……」
 涙に濡れた顔でウルスラはクスっと笑った。
「そ、そんなことないよ! 羨ましいよ……ずっと一緒にいたいって思える人がいて……」
 ユーリはウルスラの顔をまっすぐに見て言った。
「百円工女のイシュタルさまが何言ってるの! 村でも評判のイシュタルじゃない!」
「そ、そんなこと!」
「あーあ、玉の輿に乗るにせよ、乗らないにせよ、やっぱり糸引き工女の
イシュタルの名は欲しかったなぁ。あたしとユーリって一時はちょっとの差だったんですもの。
やっぱり悔しいわ!」
 ウルスラはユーリに向かってニッコリと笑い声、を高くした。
「ふふふふふ」
 ユーリもウルスラとこうやって話ができてすごく嬉しかった。
「大変だと思うけど、これからもホレムヘブの岡谷製糸でがんばってね。
イシュタルの名はずっと守るのよ!」
「ありがとうウルスラ! カッシュとお幸せに!」
 2人は明るく手を振って、各々家族の待つ家に帰っていった。


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