[紹介] [1page] [2page] [4page]


天河版あゝ野麦峠
3ページ目

3ページ目のもくじ
蚕を食べる
ラムセスの結
キックリとシャラ
ハディの涙




蚕を食べる

「今年からアレキサンドラも一緒に糸引きに行きますぅ!」
 そう言って元気にユーリに抱きついたのは、同じ飛騨の村の娘アレキサンドラだった。
 アレキサンドラの他数人の新工を加えて、再び諏訪湖の岡谷製糸に戻る日がやってきた。
まだ寒さも厳しい2月のことである。男たちを先頭として、豪雪の中、野麦峠をはじめとする
いくつもの峠を越えなければならなかった。
「一緒に頑張ろうね。アレキサンドラ!」
「はい、ユーリおね〜さま!」
 語尾にハートマークがつくような口調で言った。
「じゃあ、ユーリ。体に気をつけてな。できるだけ栄養と休息をとるんだぞ!」
「大丈夫よ、カイル兄さん。父さんと母さんをよろしくね。年末にはまた帰ってくるから! 
行って来るね!」
 カイルの心配を吹き飛ばすかのように、ユーリは元気に笑って見せた。
 ――また一年頑張るんだ! いっぱいお金を稼いで家族を喜ばせんるんだ!
 家族と別れるのは辛くて涙が出そうだったけれど、アレキサンドラをはじめとする
後輩の手前、奥歯をかみしめて涙をこらえ笑って見せた。

 ――カイルにとって、この笑顔のユーリが、元気なユーリを見る最後となったのである。


 
 ねね婆のいる野麦峠のお助け茶屋で休憩をとって、例年のとおり峠のお地蔵様に
お参りをして今年も一年元気に過ごせることを祈った。
「アレキサンドラ、ここのお地蔵様にはよぉ〜くお参りしないといけないよ。
私たち糸引き工女を守ってくれるんだからね」
「はい、おねーさま!」
 アレキサンドラは目を瞑り両手を合わせて静かにお祈りした。
製糸工場まで無事につけますように。よい糸引きになれますように。
ずっとユーリおねーさまのお側にいられますように……とたくさんの頼みごとをした。
「お〜お前が新しい工女かぇ? 随分小さいのぅ」
 そうアレキサンドラに声をかけたのは、お助け茶屋のねね婆であった。
「ぎゃっ! お化け!」
 はじめてねね婆を見たアレキサンドラはねねの醜さに驚き声を上げた。
「こら! アレキサンドラ! 本当のことを言ってはいけません。こんな御婆でも
少しはみんなの役に立ってるんだから! 続きパロとかjavaスクリプトゲームとか……。
怒らせるとどんな目にあわされるかわかんないわよっ!」
 ユーリが急いで口をふさいだ。
「おやおや、今お化けと聞こえたが気のせいかぇぇ?」
「ええ、気のせいです。ねね婆さま。HP更新がんばってくださいね!
応援してくれる人も25人くらいはいますよ。きっと!」
 ユーリが顔を引きつらせながらご機嫌をとった。
「おお、ありがとう〜。よぉ〜くお地蔵様にお参りしていけや……」
 どうやらねね婆のご機嫌は損ねずに済んだようである。


 諏訪湖湖畔のホレムヘブの岡谷製糸に着くと、今までどうりの厳しい毎日が待っていた。
相変わらずの検番たちの怒鳴り声、むっとする蚕の匂い、熱い繰釜からの蒸気、
工女の肌にまとわりつく湿気、工女たちにとっての過酷な日々がまた繰り返されるのである。
 アレキサンドラをはじめとする新工たちは、ユーリやハディを始めとする先輩工女に
糸の引き方を教わった。ユーリをおねえさまとして慕うアレキサンドラは、
真っ先にユーリの隣の席を確保し、手取り足取り教えてもらった。
 アレキサンドラは一生懸命慣れぬ糸を引いていると、隣のユーリの奇怪な行動に
目を疑った。
 ユーリは蚕の繭(サナギ)を手のひらの中に隠したと思うと、それを口元に持ってゆき、
パクッと食べたのである。
「お、おねーさま! 今サナギ食べた!」
 アレキサンドラは思わず声を上げた。
「シッ!」
 ユーリは慌ててアレキサンドラの口をふさぐ。
「さあ、あなたも検番に見つからないように食べなさい。蚕の繭はたんぱく質が豊富なのよ。
朝昼晩のお米ばかりの炭水化物中心の食事だけじゃ体が持たないわ」
 アレキサンドラはユーリに手渡された繭を怪訝そうな顔でジッとみつめた。
繭(サナギ)なんてあんまりおいしそうじゃないけど、ユーリおねーさまの言うことだ。
信じるしかない! アレキサンドラは試しにパクッと口の中に入れてみた。
やっぱりあんまりおいしくない。けど、これが栄養になるなら仕方ないと思った。
 彼女も先輩工女を真似て、蚕の繭(サナギ)を食べるようになった。


ラムセスの結婚

「きゃあ! 紅白まんじゅうよー!」
「まんじゅうだー!」
 昼の食堂に工女たちの歓喜の悲鳴が響き渡った。
 製糸工場の長男ラムセスの結婚が決まったお祝いに工女たちにも紅白まんじゅうが
ふるまわれたのである。銀行家の娘アッダ・シャルラトとの結婚である。
 普段甘いものなど食べられない工女たちにとって、まんじゅうは
すばらしいご馳走であった。嬉しそうにもぐもぐとまんじゅうを頬張っている。
 ところが、そのまんじゅうに全く手をつけない集団がいた。ユーリをはじめとする
飛騨の工女たちであった。ウルスラをあんな目に合わせたラムセスの結婚など
到底喜ぶ気にならなかったのである。
「あたしは食べないよ。こんなまんじゅう食べるもんか!」
「うん」
 ユーリや3姉妹は口を一文字に結んでまんじゅうに手をつけようともしなかった。
アレキサンドラはユーリの顔と紅白のまんじゅうを見比べて、やはりユーリと
同じようにまんじゅに手をつけようとしなかった。
「ラムセスは許せないけどぉ〜、まんじゅうに罪はないよなぁ〜」
 そうゆっくり言いながらまんじゅうに手を伸ばそうとしているのは
糸引きが下手なミッタンナムワであった。
「食べたければ食べてもいいよ。でもあたしは絶対食べないから!」
 ユーリは強く言うと思わずミッタンナムワも手を引っ込めてしまった。
 結局ユーリをはじめとする飛騨の工女たちはまんじゅうに手をつけることなく
仕事に戻っていった。


キックリとシャラ

「あたしね。キックリに結婚申し込まれたの」
 嬉しそうに言ったのは双子の片割れシャラだった。
 一日の仕事が終わって、工女たちが寝床に入る少し前のことである。
「な、何言ってるの? 結婚? そんなわけないでしょ。冗談も休み休み言いなさい」
 姉のハディは怒ったような口調で妹に言った。
「冗談なんかじゃないわ。私たち好きあってるのよ。だから夫婦になるの!
キックリが今日、ホレムヘブファラオやおかみさんに話してくれるって!」
 ハディは嬉しそうなシャラの右腕をつかみ、真剣な表情で言った。
「飛騨の貧しい農村の娘と、糸屋の息子の結婚なんてできるわけないでしょ。
ユーリさまのような百円工女ならともかく、あなたみたいな普通工女と
結婚なんてネフェルティティが……おかみさんが許すわけないわ」
「何で? 日本は文明開化したんでしょ? 四民平等でしょ。どうして
好きあってるのに結婚できないの? どうして!」
「よく考えてシャラ! わたしたちはここに糸を引きにきたのよ。彼氏や旦那を
見つけに来たんじゃない。ここで一生懸命働いていっぱいお金を稼げば
飛騨に帰っていい嫁入り先が見つかるから……。キックリのことはあきらめて! ねっ!」
 ハディはシャラの両肩を抱きしめ、なだめるように言った。
「確かにここには糸を引きに来たけど……キックリ以外の人に嫁ぐ気なんてないわ」
「わがまま言わないで。姉さんが一緒に謝りにいってあげるから……」
 ハディはしゃがみこんでいる妹の腕を引っ張り立たせようとした。
シャラは首を振って立とうとしない。
「どうしてわがままなの? 私たち両思いなのよ。姉さん、私がウルスラのように
騙されると思ってるの? ラムセスは女ったらしのひどい奴だけど、
キックリはそんな人じゃないよ。本当に真剣に……」
「気持ちは通じ合っていても、結ばれない恋はあるの。
カイルフェルゼンとラムトワネットのように……」
 ハディは悲しそうな瞳で妹を見た。
「カイルフェルゼンとラムトワネットなんて単なるホ○じゃない! 天河版ベル薔薇なんかと
一緒にしないでよ。これは天河版野麦峠よ!」
「何でもいいからおかみさんのところに謝りにいくよ。ほらっ!」
 ハディは妹の腕をひっぱり、ズリズリと戸口のほうへ向かって行った。
 ハディが戸を開けようとすると、それより早くガラリと戸が開いた。
木製の粗末な戸の向こうには工場のおかみ、ネフェルティティが厳しい表情で立っていた。
「お前がシャラだね……」
 地獄の底から出たようなドスの聞いた低い声でネフェルティティはシャラの
名前を呼んだ。
 ハディは素早く状況を察知し、すかさずネフェルティティの前にひざまずき謝り始めた。
「わたくしの妹がとんでもないことをしでかして申し訳ありません。
こちらの身分と状況はわきまえております。ご子息との結婚など望んでおりません。
どうか……どうかお咎めななしに……」
「うちのキックリちゃんがとんでもないことを言い出したよ。貧しくて汚らしい工女と
結婚したいってね……。冗談じゃないよ! 出てお行き! 明日にでもこの工場から
出て行くんだ! そうすればキックリの熱も冷めるだろうからね!」
 ピシャッ! ネフェルティティはシャラの頬を思いっきり殴った。
「嫌です。出て行きません!」
 殴られた頬をさすりながらシャラは強くネフェルティティに言った。
「ふん! 出て行かなかったら、あんたを酷い目にあわせるからね! 覚えておいで!」
 ネフェルティティは強く戸を閉めて帰っていった。
 シャラは一晩中泣き明かした。仕事でクタクタな工女たちは彼女の鳴き声を
耳にしながら睡魔に襲われていった。


 次の日から案の定、シャラに対する嫌がらせ始まった。
 キックリに会わせないのはもちろんのこと、食事さえもシャラの分は用意していなかった。
出て行け、飛騨へ帰れ! と何度もネフェルティティに罵られた。
 しかし、きつい言葉を受けても激しい叱咤を受けても、シャラは諦めずに糸を引いていた。
 シャラがどうしても工場から出て行こうとしなかったので、ネフェルティティは最後の手段に出た。
 シャラが出て行かなくては、飛騨から来た工女を、皆、首にするというのだ。
 これにはシャラの困った。工女の稼ぐ賃金は飛騨の農村にとってなくてはならないもの。
工女を全部首にするとなっては、迷惑がかかりすぎる。仕方なくシャラは退職願を出し、工場を去ることにした。

「今まで迷惑かけてごめんね……」
 シャラは、薄いピンクの着物を着て、腰には薔薇模様の赤い腰巻を巻き、
簡単な荷物を袈裟掛けに背負って飛騨の工女たちの前に立っていた。
「シャラ……、姉さんこそごめんね。キックリのこと諦めろだなんて、あんなに
強く言ってごめんね。気持ちは本物なのに……」
 ハディは目に涙を浮かべながら妹の顔を見た。
「いいの……もういいの……」
 シャラは泣きながら姉の胸に飛び込んだ。温かい姉の温もりが伝わってきた。
ハディもやさしく妹の背中を抱いた。
「シャラ……」
 片割れのリュイも涙を流してシャラの肩を抱いた。
「ごめんね、リュイ。私一人だけ……先に帰ってるね……」
「ううん、峠越え気をつけてね」
 3姉妹は肩を震わせて抱き合った。
「もう……行くよ……」
 シャラは涙を拭いて出発しようとした。
「シャラ! 私たちも年末に帰るからね! そのときには元気なシャラの顔見せてね!」
 ユーリが黒い瞳に涙を溜めながら言った。
 そのとき一瞬シャラの顔がこわばったような気がしたが、ユーリは気のせいだと思った。
「そこの工女たち! さっさと仕事をはじめんかーい! 始業時間はとっくに
過ぎておるぞ!」
 別れを惜しむ飛騨の工女たちに怒鳴ったのは検番のナキアであった。
 慌てて工女たちは工場に戻ろうとする。
 ハディとリュイ、ユーリは工場へ足を向けながら振り返り、涙を流してシャラを見つめた。
「みんな……本当にごめんね……」
 シャラはそう言って薄いピンクの着物をひるがえし、工場をあとにした。

 いつもと同じく繰釜は熱く、カラカラと音を立てて機械は回っていた。
だが、ユーリをはじめとする飛騨の工女たちは元気がなく、糸を引く手も思うように動かなかった。
 昼がきても食は進まなかった。シャラは今ごろどんな気持ちで峠道を
歩いているのだろう? そう考えると食も進まなかったのである。
 西の空が赤く染まり始めた夕方。工女たちは黙々と糸を引いていると突然工場内のシャフトが止まり、
糸引きの機械が止まった。
「何? どうしたの?」
 あたりを見回すとすべての工女の機械が止まっていた。この当時の糸引きの機械は
工場の外を流れる天竜川に設置された水車によって動いており、
こうも一斉に機械が止まったとあっては、その水車に何かあったと判断してよい。
水車に石が詰まったり、ネコの死体がひかかっていたり……ときたまにあることであった。
いつもは検番が確認しに行くのであるが、ちょうどそのとき検番が休憩に入っており、
確認しに行く者がいなかった。
「検番ナキアは休憩か……、じゃあ私が水車をちょっと見に行ってくるね」
 そう言ったのは双子の残された片割れ、リュイであった。
「一人で大丈夫?」
 ハディが心配する。
「大丈夫よ。きっとネコの死体かなんかがひっかかったんでしょ」
 リュイはそう言って工場を出て水車に向かった。


 糸引きの機械が止まってしまったのでは何もすることができない。
工女たちは仕方なくとお喋りに花を咲かせていた。
 しかしその花は一人の工女に悲鳴で一気に散ったのである。
「きゃああああああ!」
 工女の悲鳴が聞こえた。ハディやユーリはその悲鳴がすぐにリュイの悲鳴だと分かった。
背筋がぞくっとした。嫌な予感がする。
「何? どうしたの!」
 工女たちは仕事を放って、悲鳴の聞こえた水車の方へ走っていった。
 水車の前には何人かの人だかりができていた。ユーリやハディはその人垣をかき分けて
入っていった。腰を抜かしたのか、リュイは真っ青な顔をして地面にへたり込んでいた。
リュイが凝視する視線の先を見ると、水車に見覚えのあるピンクの着物を来た水死体が
ひっかかっていた。うつ伏せになっているため顔は見えないが、先ほど工場を
後にしたシャラの着物に間違いなかった。その横にブルーの着物を来た男の死体もあった。
同じくうつ伏せであったが、キックリに間違いない。
「いやあああああああ!」
 ハディとユーリは大声を出して泣き叫んだ。姉の声を聞いてリュイが我に帰り
2人のほうに飛び込んできた。
「姉さん、姉さん。シャラが、シャラが!」
「うわああああああ!」
 飛騨の工女たちは一斉に泣き出した。
 シャラとキックリは結ばれぬ恋を苦に自殺をしたのだ。それも糸引きの動力となる
水車に自殺をしたということは、工場そのものに恨みがあったと思って間違いないであろう。
 しばらく工場内は大騒ぎ。ただの工女の自殺ではない。工場の息子も一緒の
心中だからである。工場主であるホレムヘブやおかみのネフェルティティが
かけつけ、仕事どころではなくしばらく騒ぎは収まらなかった。
 工場の男衆が素っ裸で秋の水の冷たくなった天竜川に入り、水車に引っかかったモノを
取る作業に取りかかった。これは大変危険な作業であり、下手をすると作業員も一緒に水車に
引き込まれてしまうという恐ろしい作業でもあった。
 作業が終わるころ、茜色に染まっていた西の空はすっかり群青色に変わり、
シャラとキックリの結ばれぬ想いが、まるで怨念となって夜の暗闇をさ迷っているような
夜が訪れた。
 ハディやリュイ、ユーリがショックを受けたのは言うまでもなく、
他の工女たちも大変ショックだった。そして同じくらいショックを受けているのは
工場のおかみであり、キックリの母であるネフェルティティであった。
 彼女は息子の死をどう受け止めたのであろう? 
 しかし、誰が亡くなっても岡谷の糸車は止まることを許されず、
やはり次の日から工女たちが糸を引く毎日は変わらなかった。
 富国強兵、殖産興業。明治の変わりゆく時代の波の中に、2人の男女の死も
簡単に飲み込まれていってしまったのである。
 


ハディの涙

 シャラとキックリの死を、案の定、悲しんでいる暇などなかった。
ここ数ヶ月赤字続きだった糸値が、この秋から上に向きかかっていたのだ。
こんなときに一気にもうけておかなくてはいつ糸値が下を向いていしまうかわからない。
チャンスだ! 工女たちに糸を引かせろ! 出来れば一睡もさせずに働かせたいと
思うホレムヘブであった。
 工女たちは毎晩10時過ぎまで仕事をして寝るのは11時過ぎ。実労働10数時間。
繰釜からの蒸気でびしょぬれになりながら働く日々がもう6週間以上も続いていた。
 もっともっと働かせたいと思うホレムヘブは、時計の針はそのままにして始業時間を
30分早め、就業時間を30分遅くするという姑息な手段に出た。
言われるがままにしか働くしかない工女たちは、積もり積もった疲労と戦いながら
毎日糸を引いた。だが、こんな毎日では体調を崩す者もしばしばでた。
 飛騨の工女も例外でなかった。
 ある日、ハディが仕事中に腹痛を訴え、糸を引く手が止まってしまったのである。
「大丈夫? ハディ」
「姉さん、しっかりして!」
 ユーリやリュイをはじめ、周りにいた者たちはハディを心配する。
「ナキア検番さん、ハディが……ハディの具合が悪いんです!」
 ユーリがナキアに訴えた。
「なに! ハディの具合が悪いじゃと! ふざけるんじゃないよっ!」
 ナキアはハディに近づいていった。
「よし、病気ならワタクシが治してやる! 立て!」
 ナキアはハディの胸元をつかんだ。次にハディの頬に続けざまに激しい平手打ちが飛んだ。
「うっ、ぐっ!」
 唸り声とともにハディのまとめていた髪が崩れ、そのまま濡れた床の上に倒れた。
「何するの!」
 ユーリとリュイがナキアを必死で止めようとしたが、この二人も激しい平手打ちを食らった。
「今をどんな時期だと心得てるんだ! 今糸を引かなかったらいつ糸を引く!
おまえたちの病気にはこうするのが一番効くんだ。甘えるんじゃないよっ!」
 床に倒れたハディはフラフラと立ち上がり、髪を直して自分の機械の前に戻った。
ユーリとリュイも何も言わずに仕事に戻り、まるで何もなかったかのように糸を引き始めた。
 しかしハディの顔色は青白くげっそりとし、腹が痛むのか、何度も糸を引く手が
止まり辛そうだった。これまでハディは良い糸を引く優良工女だったが、
どんな工女でも病気になったらボロクソで、工女たちはみんなよくそれを知っていたのだ。

「大丈夫? ハディ? お腹痛いの?」
「姉さん!」
 夜10時過ぎ、仕事が終わって工女たちの休む寄宿舎に帰ったハディは、額に汗を浮かべながら
腹をおさえうずくまり、大変苦しそうだった。
「一晩休めば……大丈夫です……きっと。みんなも疲れてるから……早く休んで……」
 確かにみんな疲れきっていた。ハディの腹痛も疲れからきているものだと
よいのだが……。そう思いユーリたちはハディに掛け蒲団を一枚多くかけて眠りについた。
 次の朝、やはりハディの具合は全くよくなっていなかった。激しい腹痛のため
殆ど寝ていなかったらしい。心なしか、昨日よりも腹が膨れているようにさえ見えた。
額に手を当てると熱もあるようだった。
「大変、お医者さんに見せなくっちゃ!」
 ユーリは工女をまとめる検番ナキアのところへゆき、医者を呼んでもらうように言った。
ハディは本当に具合が悪いのだということをナキアは悟り、昨日のように殴りは
しなかった。だが、医者など呼ぶ気は全くないようであった。ハディの稼いだ給金から
薬だけなら買ってやると言ったのだ。
「く、薬なんて……買ったら……飛騨へ持って帰るお金が……」
「何言ってるの姉さん! お金なら私が働くから大丈夫よ! 
姉さんは薬を飲んでゆっくり休んで! ねっ!」
 リュイは苦しそうな姉を見て泣きそうになりながら言った。
 薬を買って飲んではみたものの、ハディの病状は全く良くならなかった。
腹がどんどん膨れてきている。原因はわからないが腹膜炎を起こしているのだ。
 ユーリたちは検番に泣きついた。どうにか医者を呼んでくれと……。
しかし健康保険もないこの時代。医者にかかるのは高額な金がかかり、
工女の給料だけではまかないきれず、工場からお金を出さなければいけなかった。
どんなに頼み込んでも医者は呼んでもらえなかった。
 ユーリたちはハディが心配なのは勿論だったが、飛騨の工女たちは彼女の分まで
働かなければいけなかったので、それも大変だった。

 夜11時、その日の仕事が終わった。ハディの様子はどうかとユーリとリュイは
仕事が終わるとまっさきに寄宿舎に帰っていった。
 すると、いつも蒲団に横になっているはずの彼女の姿がないのである。
トイレかと思いトイレを覗いてみた。しかしどこにもいなかった。
こんな夜中にどこか出歩くとも思えないし、第一、ハディは病人だ。
そんな遠くにいけるはずがない。
 ハディ失踪に工女の寄宿舎は大騒ぎとなり、ユーリとリュイは夜もふけているが
外に探しに行きたいと検番に言った。アレキサンドラもユーリの後についていった。
「こんな真夜中に外に出たいだと?! バカ言うんじゃないよ。
天竜川の肝取り事件を知らないのか! こんな夜中に出歩いたら殺人鬼に腹をえぐられるぞ!」
 ナキアが三人に怒鳴った。
「天竜川の肝取り事件? なあに? おねーさま」
 アレキサンドラが不思議そうに言った。
「朝の新聞に出てたのよ。ここ最近、若い娘が刃物で襲われ、腹をえぐられて
肝を抜かれるって事件がこの天竜川で発生してるの」
「こわーい。でもどうして肝なんて取るの?」
 アレキサンドラは震えた。
「人間の肝は万能薬だそうよ。とくに肺病に……結核に効くらしいのよ」
 ユーリが静かに答える。
「そんな事件があるなら、なおさら姉さんを探しに行かなくっちゃ!」
 リュイは何度も工場の外へ探しに行かせてくれるよう頼んだが、
真夜中に工女を外に出してくれなかった。結局次の日の朝まで外へ出ることは許されなかった。
  
 次の日の朝、ユーリやリュイはハディのことが心配で心配で殆ど眠らなかった。
 夜明けとともにユーリとリュイは起き、仕事が始まる前に工場の外へハディを探しに
出かけた。アレキサンドラも眠かったがユーリの後についていった。
山の紅葉は色づき、東から昇った太陽にまぶしく反射して美しかった。
早朝の秋の風は少々冷たく、ユーリの頬をくすぐっていた。
 ハディは何処に行ったのだろう? まさかあの体で飛騨に帰るとは思えない。
工場の中にもいない。だとすると何処へ……。
 ユーリとリュイは天竜川の岸辺に出た。すると猟師と思われる男たちが数人
川辺で固まっているのだ。ユーリとリュイとアレキサンドラは顔を見合わせ
近寄って見ることにした。
「どうしたんですか?」
「ああ、岡谷の工女さんかい? また上がったんだよ」
 猟師の一人が2人に向けて言った。
「また……って何が……?」
 ユーリは何が上がるのか分かっていたが聞き返した。
「工女さんの仏だよ。こうも工女さんが自殺したんじゃ、水死体で川が
浅くなってしまうんじゃないかと思うよ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
 猟師は川に向かって手を合わせた。
「どうして上がった死体が工女の死体ってわかるんですか?」
「工女さんかどうかは指をみれば分かる。あんたたちのように糸を毎日引き続けた指だ」
 3人は自分たちの指をじっとみた。毎日糸を引いているため指はガサガサである。
確かに特徴的かもしれない。
「工女の……今日あがった工女の遺体はどこにあるんですか? 友達かもしれないんです。
確認したいんです!」
「あっちの小屋の向こうに警官がいる。そこにムシロを被されているはずだ」
 猟師が指差したほうへユーリは行こうとした。
「やだ……! 姉さんが、姉さんが死んだなんて、身投げしたなんて!」
 リュイは震えてその場にへたり込んでしまった。
「まだ上がった水死体がハディって決まったわけじゃないよ。確かめないと!
私行って来る! アレキサンドラ、リュイをお願い!」
「わかりました。おねーさま!」
 ユーリは水死体がハディじゃないと祈りながら、小屋の方向へ向かった。

 ――ユーリの祈りは届かなかった。
 夜中に掛けられた猟師の網の中にひっかかっていた工女の死体はハディであった。
ハディの着物の袂にはたくさんの小石が入っていたという。
天竜川に沈みやすいように自分で石を詰め込んだのだ。
 ハディの上に被されたムシロをそっと開けると、色白のハディの美しい顔が
ユーリの黒い瞳に映った。髪も服も体も皆濡れていた。水死したのだから当然であろう。
ユーリは涙を浮かべながら、まだ水の乾かぬハディの顔を見ると、
まぶたを閉じたハディの目から一筋の水が伝わっていた。まるで涙のようだった。
先立った不幸を「ごめんね、ごめんね」と語りかけているようだった。
 寄宿舎に帰り、ハディの荷物を調べてみると、行李(ヤナギや竹で編んだ衣類を入れるカゴ)の
中から片仮名で書かれた一通の遺書が残されていた。

  シャッ金ガマダオワラズ、モウシワケアリマセン。オヤフコウヲオユルシクダサイ。
  ワタシノカラダハ、モウダメデス。ゴメンネ リュイ。サヨウナラ。 

 ハディは病気が治らないと悟ったのか? 激しい腹痛に耐えられず命を絶ったのか?
彼女を死に追い込んだ悲しみは死んだ本人にしかわからない。ただ、肉体的にも精神的にも
かなり追い込まれていたということは確かであろう。
 ハディだけでなく、天竜川には工女の水死体がよく上がったという。
 だが天竜川に上がった水死体についてはよく秘密が守られ、
水死体の第一発見者となる猟師たちの家族さえも知らなかったし、
もちろん新聞にも一行も載らなかった。工女を死に追い込んだ悲しみは
決して追求されることなく、静かに葬られてゆくのである。猟師たちにとって、
かえってそれが水死工女への不憫な思いを高め、水死体が上がると天竜川に
向かっていつまでも念仏を唱えるのが習慣であった。
 まだ若き工女が、糸引きのために命を落としたのに、何事もなかったかのように
今日も製糸工場の水車は動き続け、糸車はせわしく回り続けていた。
 


4ページ目へ