天河版あゝ野麦峠
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文明開化と野麦峠
日本アルプスの中に野麦峠と呼ばれる古い峠道がある。
明治44年に中央線が開通するまで、この野麦峠は飛騨と信濃(岐阜県と長野県)を
結ぶ重要な交通路であった。野麦峠というからには、野生の麦が生い茂っていると思われるが、
実はそうではなく、野麦とは峠一面を覆っているクマザサの実のことを言う。
クマザサは根元から、か細い稲穂のようなものが現れて貧弱な実を結び、
これを飛騨では野麦といった。
明治の時代、この野麦峠を越えて、飛騨の若い娘たちは糸引き工女として
信濃の諏訪湖周辺にある製糸工場に出稼ぎに行った。
文明開化後、富国強兵策のもとで外貨を稼いだ一番の輸出品は生糸であった。
生糸は他の輸出品と違い、原料、技術をすべて国内で自給できたため、
明治の国際収支に大きな役割を果たしていたのだ。
当時、野麦峠は信州へ向かう最大の難所で、10代、20代の娘たちが自分の背たけをこす深い雪や、
1600bの山の寒気とたたかいながら峠を越えなければならなかった。
それも工女の峠越えは、毎年2月に飛騨をたって出稼ぎにゆき、
暮れもせまった12月の終りに帰ってくるという、峠越えとしては最悪の条件の時であった。
野麦峠を越え、厳しい労働に耐え、命をも落としてしまった工女が幾人もいるといわれる明治の時代。
明治の日本を底辺で支えていたのがこの糸引き工女だったのだ
この物語は飛騨糸引き工女、ユーリを中心とした悲しい物語である。
新工ユーリ
飛騨の某村にユーリという黒い髪が美しい少女がいた。
当時、飛騨の農村は大変貧しく、口べらしのために信州へ糸引きへ行くのが
その頃の習わしであった。腕さえよければ飛騨では考えられない高収入が
得られることが魅力で、娘たちは糸引きへ行くことを誰も不思議に思わなかった。
ユーリの家も例外ではなく、今年から新工(はじめて糸引きに出る子)として
信濃の諏訪湖湖畔の岡谷製糸に糸引きへ出ることになっていた。
隣の家に住むハディ、リュイ、シャラの三人も、ユーリと一緒に糸引きに出ることに
なっていた。
「ユーリ、糸引きは辛い仕事だと思うが頑張るんだぞ。辛抱するんだぞ」
「大丈夫よ、カイル兄さん。私がんばるわ! それで年末にはいっぱい
お金を持って帰って、父さんや母さんに楽させてあげるからね!」
ユーリが澄んだ黒い瞳でニッコリと笑いかけると、兄カイルは思わず妹を
抱きしめたい衝動にかられた。
糸引きは金にはなるが、過酷な仕事と聞く。だが、既に契約の段階で
工場から前渡金が「手金」という名目で数十円、家族には渡っていたのだ。
いわば糸引きは身売り同然であった。幼い妹を手放したくなかったが、
農村の絶対的な貧困には変えられるものはなく、娘たちは12、3歳になると
野麦峠を越えて糸引きに出るのが当然のこととなっていた。
「ユーリ、体に気をつけてな。変な男に騙されるんじゃないぞ!」
「大丈夫だよ。それより父さんと母さんをよろしくね。そろそろ行くよ!」
ユーリはスッと立ち上がり、荷物を背中に袈裟掛けという形で背負った。
玄関の外に出ると、ハディ、リュイ、シャラの3姉妹が待っていた。
3人とも髪を桃割れにし、赤い腰巻をつけてワラジを履き、荷物は袈裟掛けにして
背負っていた。これが当時の野麦峠を越える工女たちのコスチュームであり、
皆同じ格好をしていたのだ。特にユーリたちの行く岡谷製糸はこの赤い腰巻に
薔薇模様が入っていて他の工場の者より目立っていた。
もちろんユーリも髪を桃割れにし、赤い薔薇模様の腰巻をつけていた。
「じゃあね、父さん、母さん、カイル兄さん、行ってくるよ!」
手を左右に大きく振ってユーリは家族に別れを告げ、家族を後にした。
振り返らなくとも、兄をはじめ両親たちがじっと自分を見つめ続けているのが
わかった。一緒に行く双子の姉妹リュイとシャラが故郷を惜しんで
ヒックヒックと肩を震わしている。ハディが双子をやさしくなだめていた。
双子たちにつられて涙が溢れてきたが、涙が目尻から溢れ出しそうになるのを
ギュッとこらえた。ユーリは家がもう見えなくなった所で一度振り返り、
一筋の涙を両目からこぼしながら、一緒に峠を越える工女のもとに合流した。
赤く染まる野麦の雪
飛騨から信州の諏訪湖の製糸工場までは3泊4日の旅であった。
工場ごとに集まって行き、50人、100人の集団を作って、2月という
まだ雪の深い峠をいくつも越えていかねばならなかったのだ。
まず先頭は逞しい男工や工場の男たち。そのあとに工女が続き、
一列になって細々とした雪道を歩いていった。一歩一歩命がけの歩みである。
寒さのあまり工女たちのワラジはいくら取り替えても足袋は凍り、凍傷やあかぎれで
血だらけであった。寒くて歯もかみあわず、声もでないほどであった。
峠越えの最大の難所、野麦峠にさしかかった。雪は深く、斜面は急だった。
みんな呼吸も満足にしないで、慎重に歩みを進めていた。
――と、そのときである。
「きゃあああああ」
若い娘の叫び声が谷底に響き渡った。
寒さで足の感覚がなくなったのか、双子の工女の片割れリュイが
足を滑らせ、谷底に落ちてしまった。助けようとしたシャラとハディと
ユーリも同じく谷底に転落してしまった。
「大変だ! 新工が4人落ちたぞ!」
「すぐに救出にいかなければ! 娘たち、赤の薔薇模様の腰巻をといて、繋ぎ合わせて
ロープとして谷底に下ろすんだ! 新工を引き上げる!」
パンツもなかった明治のこと、落ちた工女たちの赤の腰布は
凍ってガラスの破片のように彼女たちの太ももに突き刺さった。
雪に隠れた小枝に着物が破れて体がすりきれ、そこへ冷たい雪が体をとりまいた。
赤の薔薇模様の腰巻をロープ代わりにして、救助にきた男工たちによってユーリと3姉妹は助かった。
だが、谷底から引き上げられたその姿は雪にまみれてまるで雪だるまのようで、所々に血が滲んでいた。
それでも谷に落ちて助かったのだから、奇跡と言っても過言ではないのである。
野麦峠の雪は赤く染まったと言うが、これは工女たちのしていた赤の腰巻の
染料が溶け出したものだと言われている。だがそればかりでなく、
工女たちの流した血も混じっていると思ってもいいであろう。
峠の頂上まで行くとお助け茶屋と呼ばれる野麦の休憩小屋があった。
ここには白髪のねねという鬼婆のような婆さまが住んでいて、
峠を行きかう工女たちに「ねね婆(ねねババ)」と呼ばれていた。
しかし、このお助け小屋は、峠越えにはなくてはならぬお助け小屋であり、ババであったのだ。
「さあさ、あったかい甘酒でもお飲み。野麦の谷に落ちたっていう
むすめっこは誰だぞえ? 野麦の谷に落ちて生きて帰るとはいい根性してるぞい!
さあ、こっちに来てたんと甘酒をお飲み!」
ねね婆はユーリと3姉妹を呼び、特別に温かい甘酒を振る舞った。
「おいしい」
「あったかい」
谷に落ちたときの傷もここで応急処置をしてもらい、身も心もようやく
温まったユーリたちであった。
「さあ、むすめっこたち、ちゃんと野麦の地蔵様に御参りしていかなきゃ
ならねいぞい。これからの峠越えも、工場での生活もお地蔵様が
見守ってくれるからな……」
ねね婆に言われて、工女たちは外のにある小さなお地蔵様の
元へゆき、手を合わせて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と目を瞑って唱えた。
ここのお地蔵様にはあるジンクスがあり、峠を通った際に御参りしていかないと、
峠越えでも糸引き工場でも悪いことが起こるという言い伝えがあった。
みんなしっかり御参りしてねね婆の潜む「お助け茶屋」を後にした。
ホレムヘブ岡谷製糸工場
「新工! 一列に整列っ!」
諏訪湖湖畔の岡谷製糸と呼ばれる製糸工場についてユーリたちは
早速仕事場に行くこととなった。飛騨から新工として岡谷製糸に入った者は
ユーリや3姉妹の他にも何人かいた。村一番の美人と言われているウルスラ、
ハゲ頭のミッタンナムワ、サラサラの金髪が美しいジュダ、
蜂蜜色の肌にナイスバディなネフェルト。これらのメンバーが
共に寝起きをし、共に糸を紡ぐこととなったのだ。
ホレムヘブを社長とする岡谷製糸は諏訪湖に点在する製糸工場の中でも
かなりの大手で、雇われた工女の数も1000人を越す大規模な工場であった。
背が高く、きつい表情を持つ社長夫人ネフェルティティが、40pほどの
ムチを持ち新工たちに厳しく怒鳴った。
「今日からお前たちはこの工場で生糸を紡いでもらう。朝昼晩のメシと
寝床は保障されている。お前たちには高い前金を払っているんだ。
それ相応に働いてもらうから覚悟おしっ!」
ピシッ! ネフェルティティは強くムチを鳴らした。
ユーリは工場内を見回した。工女の数分だけの糸引きの機械があった。
先輩工女たちが無言で糸を引いていた。
機械には一台ずつ繰釜と呼ばれる約180度の熱湯が煮えたぎる釜があり、
その中に生糸の原料となる蚕の繭(サナギ)がプカプカと浮かんでいた。
外は雪が降り積もり手足も凍える寒さだというのに、室内は繰釜からの蒸気で
摂氏27度を越していた。水蒸気が天井の外気に冷え、大粒の雨のように降り
先輩工女たちの着ているものはびちょびちょで、みんな手ぬぐいを頭からかぶって
汗や水滴を拭きながら仕事をしていた。
更にサナギの悪臭が鼻をつき、部屋は蒸気でムンムンとする最悪の環境であった。
「うっ……」
シャラが繭の匂いに気持ち悪くなり、口を抑えてうずくまった。
「そこの新工! 繭の匂いに気持ち悪くなるとは何事だ! いいか!
これが糸引き工女の匂いなんじゃ!」
ネフェルティティは蚕の繭の入った皿を片手にシャラに近づき、
皿ごとサナギを数個シャラの顔に押し付けた。
「ひっ!」
短い悲鳴を上げてシャラはもがいたが、ネフェルティティは顔にサナギを押し付けるのを
やめなかった。蚕の繭というと聞こえはいいが、結局、幼虫の入ったサナギである。
たいていの少女は幼虫などというものを気持ちいいと思うものはいなく、
気持ち悪さとショックにバタンと大きな音を立ててその場に倒れてしまった。
「シャラ!」
ハディやリュイ、ユーリが倒れたシャラの元にかけよった。
ネフェルティティは自分のしたことを当然のことと思い、悪いともなんとも思っていなかった。
糸を引いている先輩女工たちも、「またか……」というような顔をして
糸を引く手を止めてはいなかった。
「新工たち! よぉ〜く先輩工女に教わって良い糸を紡ぐんだよ。
腕が上がれば上がるほど賃金はよくなるんだからね。会社のためにも、
国の家族のためにも頑張っておくれよ!」
ネフェルティティはそう言い残し、あとはナキアとウルヒという2人の検番に任せて去った。
ユーリをはじめ、新工たちは必死に糸の紡ぎ方を教わった。
サナギの悪臭にも蒸気にも負けてはならない。皆、早く一人前の糸引きとなれるよう必死であった。
工女の労働は噂どうり大変厳しいものであった。朝は夜明けと共に起き、慌しい朝食を
済ませた後、6時からはもう仕事を始めなければならなかった。朝も昼も夜も、
満足な食休めも取らず仕事をしていたため、胃腸を壊す者も少なくはなかった。
夜は10時まで働かされ、たいてい寝るのは11時過ぎ。そんな過酷な労働条件であったが、
食事だけは白いメシを腹いっぱい食べることができ、貧農の工女たちは
それが何よりも嬉しかった。
糸屋の息子
ホレムヘブを社長とする岡谷製糸工場には二人の息子がいた。
長男の名はラムセスといい、次男の名はキックリという。
長男のラムセスは派手で、薔薇が大好きな男だった。工女に薔薇色の腰巻を
持たせようと提案したのも彼であった。工場は彼の育てた薔薇がたくさん飾られており、
別名『薔薇工場』ともいった。とても明治初期の製糸工場と思えぬ建物であった。
また、薔薇が好きなことと同じくらい、彼はは女好きであった。
糸を引いている工女をからかいに行くのが彼の日課であり、毎日ちょっかいを出していた。
「グットモ〜ニン♪ エブリバディ〜♪ ナイスバディの女はどこにいる〜♪」
長男ラムセスの登場である。グットモーニングと言ってはいるが、
それは彼だけであって、どちらかというとお昼に近い時間であった。
また今日も来たか……という表情で工女たちは溜息をついたが、
糸屋の長男とあっては邪険にもできない。みんなラムセスのアホに付き合わなければ
ならなかった。
「おはようございます、ラムセスさま」
工女たちは糸を引く手を止めずに挨拶をする。
「おー、そこの新工ユーリ。お前には蚕の糸よりも薔薇の花が似合うぜ。フフフ。
どうだい? 今度薔薇柄のフェラーリでドライブしないか?」
ラムセスは薔薇の花を一輪、繰釜の蒸気と汗でびじょびじょになっている
ユーリの黒髪に刺した。
「遠慮いたします。今は仕事中ですので……」
ユーリは迷惑そうに薔薇の花を払うと、真っ赤なラムセスの花は繰釜の中に落ち、
みるみるとしぼんでいった。
「ふん、また断られたか、まあいいさ! おー、ハディちゃん、今日も美人だねぇ
丸の内のバリバリOLって感じで、こんな糸引き工場にはもったいないぜ!」
ユーリにふられてもめげずに次の女性へちょっかいを出す。
ハディは無言で糸を引き続け、まったくこの糸屋の長男を相手にしなかった。
「チッ! シカトかよ。まあいいさ。おやおや黙っていればナイスバデーで美しい、
俺と同じ蜂蜜色の肌のネフェルトちゃんもいるではないか。糸引き工女役が
なんだか様になっているぜっ!」
今までみなラムセスを相手にしていなかったが、ネフェルトだけは
糸を引く手を止めて、ガタンと椅子から立ち上がった。
「毎朝毎朝うるさいエジプト人だねっ! あたしたちは仕事してんのよ。
邪魔しないでよねっ!」
「おー、怖い怖い。だからお前は喋らなければ美しいって言ったんだ」
「どういう意味よっ! それっ!」
「兄に向かって……いや、糸屋の長男に向かってなんだその態度は!」
「ふん! 兄さまなんか……いいえ、糸屋の長男なんか怖くないわよーっ!」
ネフェルトはラムセスにむかってアッカンベーをした。
「なんだかあの二人って兄妹みたいね」
ユーリがこそっと隣のハディに耳打ちをする。
「そうですね。あの2人の会話はあれが普通ですものね」
ラムセスとネフェルト。この2人は毎日こんな喧嘩を工場でしているのであった。
「まったく、ネフェルトはいつもかわらねーよな。それよりも
おお! 工場一の美人と唄われるウルスラちゃんじゃないか!
今日も綺麗だねー。俺の育てている薔薇の次に綺麗だぞー」
工女のなかで一番整った容姿のウルスラにラムセスはちょっかいをだした。
「ありがとうございます。ラムセスさま。わたくしの美しさは
すべてラムセスさまにあるのですわ」
ウルスラはニッコリときれいにラムセスに微笑みかける。
「お〜! OH MY ブッタ!」
ウルスラスマイルを受けた仏教徒のラムセスは嬉しさに意味不明の言葉を発した。
「ちょっと何? あのウルスラの態度」
「ウルスラって糸屋の嫁を狙ってるらしいわよー。それでああやって
変態だけどラムセスに色目使ってるのよ」
「確かに糸屋の嫁は工女の憧れだけどねー」
工女たちのあいだでヒソヒソと囁き声がしていた。
毎朝恒例ラムセスの工女参りが終わると、次に次男キックリが入ってきた。
「皆さま、お仕事ご苦労様です。ご苦労様です。がんばってください」
そういいながら丁寧にお辞儀をしながら、工場内を回って行く。
長男のラムセスと違ってなんとも頭が低く礼儀正しかった。
「キックリさんっておとなしいわよね。やさしいし……」
ユーリが3姉妹に向けて言うと、すかさず双子が
「そうよねそうよね」
と嬉しそうに言った。
糸目検査
糸を引くだけなら、過酷な労働条件でも工女たちは糸引きを苦痛だとは思わなかったという。
工女たちを苦しめたものは「糸目検査」であった。
生糸はただ紡げばよいというものではなく、糸の細さや糸目の数など工女の紡いだ糸に
ランクがつけられ、よい糸を紡いだ者は給料があがり、下手な者はそのぶんだけ
減給されてしまうこともあった。
それに糸引きには本来、『向き不向き』があった。
糸引きに向く工女はいい金を稼ぎ、工場にも両親にも優等工女と呼ばれもてはやされた。
中には糸引きで百円以上稼ぐ『百円工女』と呼ばれる有能な工女もいて、
工場の宝として大事にあつかわれてたのだ。
特にこの岡谷製糸には最優等工女に『イシュタル』という称号を与える制度があって、
イシュタルになることは工女たちの夢であった。
逆に糸引きに向かない不器用な工女は、働いても働いても金を稼ぐことができず、
前金分を返すのがやっとという状態の者だ。このような工女は、本来糸引きには
向かない工女で、どんなに苦労してもなかなか腕の上がらなかったかわいそうな工女であった。
ユーリたちが新工としてきてから数ヶ月経った。数ヶ月たつとそれなりに良い糸を
ひけるようになり、また工女として糸引きに差がつくときでもあった。
今日はその糸目検査の日である。
工場長のホレムヘブが各工女の成績を読み上げた。
「ハディ18匁95分、リュイ18匁50分、シャラ18匁60分、ユーリ20匁12分、ジュダ17匁20分、
ネフェルト18匁75分、ウルスラ19匁95分、ミッタンナムワ16匁80分」
自分の引いた糸に成績がつけられ、工女たちはきゃあきゃあと騒ぐ。
特に一番よい糸を引いたユーリに注目が集まった。
「すごい! ユーリさま」
「いいなぁ〜」
3姉妹やミッタンナムワ、ジュダ、ネフェルトがユーリをもてはやす。
「うむ。ユーリは本当によい糸を引いた。これは輸出用にもできるぞ」
「輸出用? 嬉しい!」
ユーリはマリアさまを拝むように手を合わせて喜んだ。
「ちょっと待ってください。どうして私の糸がユーリより下なんですか?
もう一度調べなおして下さい!」
一人、ユーリを喜んでいないウルスラがホレムヘブに強く言った。
――バシン!
ホレムヘブの張り手がウルスラの左頬に飛んだ。
「もう一度検査しろだと? 検査は厳正だ! 確かにお前はよい糸を引くが
今回はユーリのほうがもっといい糸を引いた。生意気言うんじゃない!」
口よりも早く手が出るのは、糸引き工場の当たり前のことでもあった。
ウルスラは悔しそうな目をしながら、殴られた頬をさする。
「優良工女に与える称号『イシュタル』は今回はユーリのものだ。
工場のためによい糸をひいてくれよ」
きゃあ! と歓声があがった。皆ユーリのイシュタルを喜んでいるのであった。
当のユーリも本当に嬉しそうであった。これが噂の「百円工女」である。
「それに比べて、ミッタンナムワ! ジュダ! 何だこの成績は!
こんな糸を引いていたのでは工場はマイナスだ!」
「す、すみません……」
ミッタンナムワが謝るとホレムヘブは思いっきり彼の顔をグーで殴った。
「あやまる暇があったらよい糸を引け!」
優良工女にはやさしく当たるが、無能工女に対しての対応は残酷なものだった。
「うっ、うっ、殴られた頬が痛いわ。うえーん」
ミッタンナムワは大きな体には似合わぬ、か細い声を出しながら泣いていた。
「元気だして、ミッタンナムワ。一緒にがんばろう。ねっ」
ユーリはやさしくミッタンナムワを宥め、涙をふいてあげた。
「あたしなんて、あたしなんて……糸引き工女には向いてないのよ。
うわーん!」
大きな図体でミッタンナムワはユーリの胸の中でワンワン泣いた。
もう一人、ミッタンナムワと一緒に糸の成績を注意されたジュダも、
殴られはなしかったが、彼なりにかなり落ち込んでいた。
部屋に帰ろうと思い一人で廊下を歩いていた。すると前方にホレムヘブが立っており、
人差し指で軽くこちらに来いというようにクイクイと指を曲げた。
ジュダは滅多に人の来ない物置小屋に連れ込まれた。
きっと糸のことで怒られるんだ。そう思いビクビクしていた。
「ファラオ……なんでしょう?」
「ジュダ、お前の糸の成績は悪かったが、私の力でなんとか減給は免れるように
しておいたぞ。感謝しろ」
ニタニタと汚い笑いをジュダに投げかけた。
「えっ?」
怒られるものとばかり思っていたジュダは拍子抜けできょとんとする。
「これも私のおかげだ……。だから……」
ホレムヘブはスッと近づいたかと思うと、ジュダの両腕をしっかりつかみ、
サラサラの金髪の毛先がきれいに散りばむ彼の首もとに顔をうずめた。
「ひっ! な、何をするのです……ファラ…オ……。やめてください!」
「お前のような無能工女がここにいられるのも私のおかげなのだ!
だからこれくらいは……!」
ホレムヘブはジュダの体を貪りはじめた。
「やだやだやだやだ。やめてー!」
金髪の少年……違った! 少女は泣き叫んだ。
「どうしたのっ!」
偶然、ホレムヘブとジュダのいる物置部屋の前を通ったユーリは
ジュダの悲鳴を聞き、部屋に飛び込んできた。
「イシュタル様!」
ジュダはユーリの胸に飛び込んだ。肩はガクガクと震えており、ユーリはギュッと
ジュダの肩を抱きしめたやった。
「ふんっ!」
邪魔が入ってしまったホレムヘブは悔しそうに顔を歪ませ、何も言わずに部屋を出て行った。
「どうしたの? 大丈夫?」
「はい、イシュタルさま。ぼく……ぼく、怖かったです!」
しばらくジュダはユーリの胸の中で震えていた。
糸目検査の成績が悪かったことを理由に、ホレムヘブはジュダを襲おうとしたのである。
百円工女と言われるまでよい糸を引く工女もいれば、引いても引いてもよい
糸が紡げない糸引きに向かない工女もいた。それは本人の向き不向きの問題であって、
個人差という人間には必ずあるものだった。たとえ糸引きに向かぬ工女でも
明治の製糸工場では糸を引く以外に逃げる道はなく、お互いに励ましあって
故郷の家族のことを想い、糸を引いてゆくしかなかったのだ。
次の日、起床から短時間で朝食や身支度をして工場へいかなければいけないという、
いつもの戦争のような朝が訪れた。
バタバタと慌しく支度をして、工女たちは次々と工場に入って行き、自分の
機械の前に座った。皆、次々と仕事に取り掛かり、工場が動き始めた。
しかし、今日は仕事が始まる時間になっても2台の機械が空いていた。
ミッタンナムワとジュダの機械である。2人はいつまでたっても来ないので、
心配して工女の一人はは部屋に探しに行った。
「大変! ジュダとミッタンナムワがいないわ! 身の回りの物もなくなってる!」
――脱走だ!
みんなは瞬時にそう悟った。昨日の糸目検査が原因で脱走したのだ。
ユーリたちは顔を青くした。脱走などしても、故郷の飛騨には難所の野麦峠があり、
とてもじゃないが、か弱い工女2人で越えられる峠ではない。故郷に帰らないとしても
製糸工場一体には、逃げた工女をすぐに取り押さえるためのネットワークが
貼られており、すぐに捕まってしまうのは目に見えていた。
捕まったあとには厳しい処罰があり、ユーリはそれが何よりも心配だった。
工女たちはザワザワと騒いでいると、検番のナキアとウルヒが大きな声で叫んだ。
「くぉら! 工女ども! 脱走した者はこちらに任せて、さっさと働かんかーい!」
ナキアはバシバシ工女を殴って、糸引きの機械の前に座らせた。
ユーリはジュダとミッタンナムワのことが心配で、心ここに在らずの状態で
糸を引いた。
その日の夕方、案の定ジュダとミッタンナムワは捕まってしまった。
捕まった2人はうつむき、落ち込んだ表情で工場に帰ってきた。
脱走した工女や罰を犯した工女のために、製糸工場には仮牢のようなものがあった。
食事を与えなかったり、減給したり、罰を犯した工女には厳しい処罰があった。
罰を犯した工女たちは普通、同じ部屋に隔離されるものであったが、
このときはジュダとミッタンナムワ別々の部屋に隔離された。
ホレムヘブがそう命令したのである。
ユーリはそれを聞いて真っ青になった。ホレムヘブに襲われそうになっている
現場を目撃したユーリとあっては、いてもたってもいられなくなり、
ジュダの閉じ込められている独房へ向かった。
独房が見えてくると、そこへ一人のガッシリした体系の中年男が
ジュダの独房へ入って行くのが見えた。工場長のホレムヘブである。
「やめてー!」
と叫びながら独房へ向かって走ろうとすると、彼女の肩をとめる者がいた。
ウルスラである。
「あんたジュダの独房へ行ってどうするってのさ! 見てのとおり
あそこにはファラオが入っていったよ」
「どうするって、止めるのよ。ジュダが可哀想だもの!」
「可哀想? 笑っちゃうわ! 良い糸が引けなかったら他でフォローするしか
ないじゃない! ジュダにはフォローできる容姿と、それをお気に召した
ファラオがいて幸せなんじゃないの? フフフ」
悪魔のようなウルスラの微笑みが、ユーリを襲った。
「でも、でもそんなことっ!」
「あの小屋にはしっかり鍵がかかってる。あんたなんかが行っても
どうにもならないわよ。それにファラオの邪魔なんかしたら
あんたの首も危なくなるんじゃない?」
ユーリは黒い瞳から涙をボロボロ溢れさせながら、小屋を見つめた。
どうしてこんな目に合わなければいけないのだろう? 一生懸命働いているのに!
何かが……何かが間違っている!
そう思わずにはいられなかったのだ。
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