夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)


2.イブラヒム邸

 ラムセスは裸足で石畳の道を走っていた。足の裏が凍るように冷たかったが
どうしたらいいかわからない不安の方が大きかった。
闇雲に走っていると、ふと、赤と黄色の薔薇の花が目に入った。




「薔薇だ……」
 ラムセスは足を止めた。
ここにも薔薇はあるのか。不安ながらも少しほっとした。
薔薇の咲いている裏には塀があった。登ろうと思えば超えられる高さであった。
ラムセスは赤と黄色の薔薇をよけながら、塀に上り、反対側に降り立った。
「誰だ!」
 降りた瞬間、台形の赤い帽子をかぶった若い男に叫ばれた。
 ラムセスはオッドアイを見開いたまま、硬直した。
「侵入者だ! 怪しい侵入者がいるぞ!」
 赤い帽子の男は大きな声で叫んだ。すると同じ帽子をかぶった男が数十人集まってきた。
皆、手には剣や弓矢を持っている。
「くそ、何なんだよこれは!」
 ラムセスは腰にさしてあった、短剣を引き抜いた。
 最初に侵入者だと叫んだ男がこちらに切りかかってきた。ラムセスは短剣で受け止めて跳ねのける。
休む間もなく次が切りかかってくる。時々、矢も飛んでくる。かなり訓練されている者たちのようだ。
剣の腕には自信があるラムセスであったが、防御することだけで精一杯であった。
ラムセスが激しく立ち回っていると、先ほど背中に紐でくくりつけた薔薇の花びらが舞った。
薔薇の花の舞う中、ラムセスは次から次へと向かってくる敵に対峙していた。
 シュッと目の前に何かが飛んできた。矢がラムセスの短剣を目がけて飛んできたのである。
「うっ!」
 ラムセスは剣を落とした。
 剣を持つ右手首に矢がかすり血が出ていた。
「そこまでだな」
 最初に侵入者と叫んだ男が、オッドアイの前に剣を突き付けた。
 ラムセスは血の出ている右手首を抑えながら唾をのむ。
「イブラヒム様、この男をどうします?」
 赤い帽子をかぶった男たちの向こうに、黒髪の若い男がいた。赤い帽子はかぶっていない。
マントを羽織った少し身分の高そうな男であった。
 イブラヒムと呼ばれた男は、赤い帽子の群れをかきわけ、こちらに近づいた。
 イブラヒムはラムセスの目の前まで来ると、彼の顎を指で軽く持ち上げた。
「金とセピアのオッドアイか……」
 小さく呟きながらクスリと笑った。
「イブラヒム様、この男、すぐに殺しますか?」
 赤い帽子の男がいう。
「いや、持ち物はすべて没収して、しばらく牢に閉じ込めておけ。処分は後々考える」
 イブラヒムと呼ばれた男は、ラムセスに意味ありげな笑顔を向けて立ち去った。


***

 牢に閉じ込めろと言っていたので、もっと粗末な場所に入れられると思いきや整った部屋に入れられた。
四方は石の壁で囲まれているが、床には厚手の赤い布が引いてあった。
「なんだ……、この布は。こんな分厚い布は初めて見るぞ。よく見ると……糸の塊みたいだな」
 使い古した古い絨毯であった。ラムセスははじめて絨毯を見たのだ。
「入ります」
 扉の方から声がした。最初に侵入者と叫んだ赤い帽子の男が部屋に入ってきた。
「イブラヒム様からあなたの素性を聞くように言われいます。素直にお答えいただかないと
あなたの命はありません。まず、名前は?」
「ラムセス……」
 赤い帽子の男は、パピルスをものすごく薄くしたものに、彼の名前を書き留めていた。
赤い帽子の男の顔を見ると、頬にそばかすがたくさんあった。
「私はメフメトと申します。では、あなたはどこからきたんですか? それもそんな恰好で……」
 メフメトは上半身裸のラムセスを見ていった。
「エジプトだよ。テーベにある自分の家の庭で居眠りをしていて、目が覚めたら外の噴水の前に
いたんだよ。そうだよ、一体ここはどこなんだよ!」
 ラムセスはメフメトに食い入るように質問した。
「ここはオスマン帝国の首都イスタンブルです。エジプトの出身ですか……
でも、テーベという場所は聞いたことがありませんね。田舎の町ですか?」
「何言ってるんだよ! テーベは首都だぞ!」
 メフメトは首をかしげる。
「じゃあ、次、あなたの職業は?」
「軍人だ。エジプトの軍司令官。ホレムヘブ王の元で直属の軍を率いている。
テーベを知らなくても今のファラオ、ホレムヘブは知っているだろう」
 メフメトのペンが止まる。不思議そうにラムセスを見つめていた。
「知らないのか? まあ確かにまだ在位して数年だからな。じゃあ、その前のファラオ、アイは知ってるか?
ツタンカーメンは?」
 二人の間に沈黙が流れる。その沈黙を破ったのはメフメトであった。
「先帝セリム1世陛下の時代に、エジプトのマムルーク朝は制圧して、今はオスマン帝国の支配下にあります。
元アレッポの太守ハイル・ベイがエジプトの州軍政官となっているはずですが……」
「何を言ってるのか全然わからん」
 聞いたこともな名前を並べられて、ラムセスはメフメトの言う単語を一つも聞き取れなかった。
「最後にもう一つ。なぜあなたはこのイブラヒム様のお屋敷に侵入したのですか?」
「ああ、どうしたらいいかわからなくて、噴水前の広場をうろついていたら、薔薇の花が目に入ってな。
俺は薔薇が好きだからなんとなく入ってみたんだ。他人の家に勝手に入って申し訳ないと思っている」
 ラムセスはメフメトに詫びた。
「わかりました」
 そう言うと、メフメトは軽くため息をつき、ペンをしまい部屋から出て行った。
「まったく……どこなんだよ、ここは。オスマン帝国ってなんだよ。聞いたこともないな。
俺はエジプトから相当離れた場所にいるのか? なんでだ? 誘拐……されたとか?」
 誘拐された割には、近くに誘拐犯がいない。手足が縛られたり拘束されてもいない。おかしい……。
「ハックション!」
 ラムセスは大きなくしゃみをした。蜂蜜色の肌には鳥肌も立っている。
「どうでもいいが、ここは寒いな。何か着るものは……」
 ラムセスは部屋の中を見回す。
「やっぱりこれしかないか……」
 ラムセスは床にひいてあった古びた絨毯をめくり上げ、毛布のようにくるまった。
「デカい、重い、でもあたたかい」
 部屋の中央で絨毯にくるまり、ラムセスは静かにしていた。


***
「おい、なんて格好をしている……」
 一時間ほどたったときであろうか、扉が開いた。
 イブラヒムと呼ばれていた身分の高そうな男が、メフメトと一緒に立っていた。
「寒い」
 ラムセスは短く答える。
「それはそうだな。そんな恰好をしていればな……」
 イブラヒムは笑った。
「お前の職業は盗人か?」
 先ほど没収された短剣や粘土板、パピルスがラムセスの前に置かれた。
「どこの宝物殿から盗んできた。この剣もそうだが、粘土板とパピルスは相当古い時代のものだ。
どこから盗んできたか言え!」
 イブラヒムは厳しく言った。
「この剣は……ヒッタイトから輸入した鉄剣だ。エジプトでは鉄は作れないからな。
鉄はヒッタイトの専売品だ。ちゃんと輸入したものであって盗んだわけではない。
粘土板もパピルスも仕事上使っているものだ。確かに俺のものではないが、
俺が持っていても構わない物だ」
 イブラヒムが眉間に皺を寄せる。横にいるメフメトは困り顔である。
「もう一度名を聞くが何という名前だ? 出身は?」
 イブラヒムがオッドアイを見つめて真剣に言う。
「さっきもそっちの奴にいったよ。名前はラムセス。エジプトのテーベ出身」
「エジプトの周りにある国の名前を言ってみろ」
「周辺の国か……。一番のライバルの国はヒッタイトだな。ミタンニはヒッタイトに統合されただろ。
ヒッタイトの東にバビロニア、西にアルザワだな」
 ラムセスはすらすら答える。
「ラムセス。このパピルスと粘土板の文字をお前は読めるのか? 何と書いてある?」
「パピルスのほうは、軍の行事予定だな。粘土板のほうは部下の兵士からの連絡だ」
「これは何語だ?」
「パピルスはヒエログリフ。粘土板はヒッタイトやその周辺地域の共通語のアッカド語だが……」
 イブラヒムは粘土板を手にいぶかし気な表情をする。ふと、イブラヒムはラムセスの手に目を止める。
「その指輪は何だ?」
「これか? これは俺の印章だ。ラムセスってヒエログリフで書いてある。パピルスに目を通したら
この印章を押すんだ。粘土板にも押すぞ」
 ラムセスは左手の中指にはめていた印象を外して、イブラヒムに見せる。
 イブラヒムは物珍しそうに印章を眺める。
「この印章もしばらく預かる。それとメフメト、ラムセスに何か着るものを用意してやれ。
絨毯を着られては困る」
「え? この男、殺さなくていいんですか?」
 ラムセスはメフメトの言葉にぎょっとした。
「利用価値のある男かもしれない。もう少し様子を見る。ただし……逃げようとしたら殺していい」
 イブラヒムは鋭い視線をオッドアイに向ける。
「わかりました〜」
 メフメトは陽気に答えた。二人は部屋から出ていき、絨毯にくるまったラムセスだけが一人残された。



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