夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)
3.テオドシウスのオベリスク
昨晩はこの部屋に泊まった。
イブラヒムが行ったあと、着るものと食事が用意された。
着るもののほうは、赤い帽子の奴らと同じ服であった。
3枚ある。上半身に着ると思われる腕とほぼ同じ長さの筒が2本ある服。
下半身に着ると思われる足を通せそうな服。あともう一つは……穴は2つあるが腕を通すのか
足を通すのかよくわからない丈の短い小さな服であった。ラムセスは剣で戦った四角い帽子の
彼らを思い出した。多分これは上半身に着るのだろう。
すべて着てみると、まあ、寒さはしのげる。
床にひいてあった「じゅうたん」とやらを体に巻かなくても済んだ。
食事は見たこともないもので、毒が入っているかと思ったが入っていなかった。
意外と美味かった。
コンコンとドアがノックされるのと同時に、メフメトと呼ばれていた俺に質問した奴が
入ってきた。
「イブラヒム様から、今日は、あなたを宮殿の中を案内するように言われております。
準備ができ次第ご案内しますがいいですか?」
「何も持ってないから準備なんてない」
ラムセスはぶっきらぼうに答える。
「……あの、ベストが前と後ろ逆です。直してください」
ラムセスはメフメトを見る。自分はベストとやらを背中に来るほうを前に来ていた。
「ああ、そうか」
ラムセスはメフメトを見て直す。
「僕はメフメトって言います。あなたのことはラムセスと呼んでもいいですか?」
「ああ」
ラムセスは短く答える。部屋の外に出ると、もう一人少年が待っていた。
黒髪のおかっぱ頭の上に四角い帽子を載せている。
「彼はシャフィークといいます。喋れません。一緒にまわります」
シャフィークは無表情で軽く会釈をする。二人とも、腰には剣をさしている。
やはり逃げるのは難しそうだ。第一、ここがエジプトからどのくらい離れている場所かもわからない。
大人しく二人についていくことにした。
建物の外へ出ると、薔薇の咲く庭があった。赤と黄色の薔薇。昨日、この薔薇につられて
この庭に入ってしまったのだ。
外へ出て、まずは昨日の噴水が目に入った。その向こうには丸い屋根の巨大な建物。
反対側を見ると、ラムセスは目を疑った。
「お、オベリスクじゃないか!」
昨日の噴水とは反対側に、ヒエログリフが刻まれたオベリスクが天高くそびえたっていたのだ。
ラムセスはオベリスクに向かって駆け出す。
「ちょっと! ラムセス、待ちなさい。一人で行ってはダメです」
メフメトはラムセスの背中を追った。
ラムセスは嬉しくてたまらなかった。オベリスクの前までくると、胸が高鳴った。
「オベリスクだ! やっぱりここはエジプトじゃないか!」
ラムセスは興奮を抑えきれない。
「ラムセス、ここはイスタンブルです」
メフメトが息を切らして言う。
「でもオベリスクがあるじゃないか」
「ああ、テオドシウスのオベリスクですね。確かに元はエジプトにありましたが……」
「ておどしうすって誰だ? トトメス3世ってかいてあるぞ」
オベリスクのヒエログリフを指さす。
「テオドシウスはローマ帝国の皇帝ですよ。そんなことも知らないんですか?」
「ろーまていこくってなんだ?」
「……次から次へと質問しますね」
メフメトは軽くため息をつく。ラムセスはオッドアイを輝かせてオベリスクを見つめる。
オベリスクを見つめながら、ラムセスはこう言った。
「トトメス3世、高貴なる上エジプト、ラー神が愛した者、マアト女神の登場、
二国を愛した者、ラーの出現は確固なり、ラー神に選ばれし者
力強き雄牛、テーベの輝き、天に於ける太陽神ラーの如く、永続する王位、
雄々しく、力強く、神聖なるもの、ラーの出現は確固なり、ラー神に選ばれし者。」
「何言ってるんです? ラムセス?」
メフメトが眉間に皺を寄せてラムセスの顔を覗き込む。シャフィークも首をかしげる。
「ああ? オベリスク読んだだけだぞ」
二人が顔を見合わせる。そんなことはよそに、ラムセスは上機嫌であった。
オベリスクがあるのだから、ここはエジプトと近いのかもしれない。すぐに帰れそうだと思ったのである。
「なあ、メフメト。ここからエジプトまではどれくらいかかるんだ?」
「僕はエジプトには行ったことがないのですが、1か月くらいですかねぇ」
「1か月。そんなにかかるのか」
やはりそれほど近いわけではないらしい。
「じゃあ、このオベリスクは誰がここに建てたんだ? 他には壁画とかないのか?」
「壁画はありません。オベリスクは建てたんじゃありません。ローマ帝国のテオドシウス帝が
エジプトからここに持ってきたんです」
「持ってきた! なんでだ?」
ラムセスは叫んだ。オベリスクを1か月もかかる遠く離れた場所に運ぶことに疑問を感じた。
「古代の遺跡が珍しいからじゃないですか? 最も、この場所に運ばれてきたのも、
1000年以上も前の話ですけどね」
「え、古代?…せん…ねん……」
ラムセスは心臓が喉元で鳴るのを感じた。オベリスクを見つけたときとは違う鳴り方だった。
「もう! 宮殿を案内するつもりだったのに、ラムセスがオベリスクに向かって走り出すから
逆方向に来ちゃったじゃないですか。仕方ない、先にモスクに行きましょう」
ラムセスはオベリスクを前に立ち尽くしている。
「ラムセス、行きますよラムセス!」
オベリスクを前に硬直しているラムセスをシャフィークが引っ張っていった。
「ここが宮殿内で一番大きいモスクです。今の時間はみんな朝のお祈りに来てますね」
呆然とするラムセスはモスクに無理やり連れていかれた。
メフメトが言った「古代、1000年前」という単語が頭の中から離れない。
もしかして自分の今いるオスマン帝国という国は……、この世界は……。
「このモスクはですね、天井が自慢なんですよ。イスタンブルで一番きれいな幾何学模様の
天井ですよ」
メフメトが指で天井を指す。ラムセスは仕方なく上を向く。
「な、なんだこれは……」
オベリスクと同じくらい高い位置に、円形をした天井がいくつも見えた。
色とりどりの信じられないくらい細かく美しい模様がびっしりと描かれている。
こんな技術、自分のいるエジプトはもちろんヒッタイトにもバビロニアにもない。
やはりここは、自分いる世界よりもずっとずっと後の世界だ。間違いない。
ラムセスはモスクの天井を見て確信した。
「せっかくなのでお祈りしましょう。ラムセスはムスリムですか?」
「ムスリム……」
ムルシリなら知っているがムスリムなんて知らない。そう思ったが、声には出さなかった。
床には絨毯とやらが引いてあった。メフメトとシャフィークは絨毯に座り手をついた。
絨毯と平行になるように体を折り曲げて、祈り始めた。ラムセスもとりあえず彼らの真似をした。
「どうしました?ラムセス、急に静かになって……」
お祈りが終わった後、3人はモスクを出て宮殿へ戻る道を歩いていた。
ラムセスは返事をしなかった。
ここは自分のいる世界じゃない。どんなに遠くても道を辿っていけばいつか必ず
エジプトに辿り着けると思っていた。今、このままではどんなに歩いてもどこまでも行っても帰れないのだ。
そう思うと地に足がついていないような感覚になった。
モスクから宮殿までの道を歩いていると、所々に丸い長い筒のようなものが置いてあることに気付いた。
「おい、この長い筒はなんだ?」
「大砲です」
メフメトが答える。
「たいほう? なんだそれ?」
また二人が顔を見合わせる。そんなことも知らないのかという同調である。
「武器ですね。筒の中に火薬を詰めて敵を攻撃するんです」
「かやくってなんだ?」
オッドアイは真剣に二人を見つめる。
「……本当に知らないんですね」
メフメトは唖然とした。
***
結局、宮殿を案内するといわれたが、時間がなくなってしまったため、また後日ということになった。
その日の夜遅く、俺はイブラヒムに呼ばれた。もしかしたら殺されるかもしれない。
いや、俺はこの世界ではとっくに死んでいる人間だから殺されたら死ぬのか?
色々考えつつ、イブラヒムの部屋に連れていかれた。
イブラヒムは窓側に並べてある赤いソファの中央に座っていた。目の前に座れと促されたので
絨毯の上に座る。
「メフメトから聞いた。オベリスクのヒエログリフをすらすらと読んだのだってな」
ラムセスは黙秘する。今の世界から違うずっと昔から来たと、この男に知られるのは
危険かもしれないと思ったのだ。
「服の着かたもモスクも大砲も知らない。スパイというわけではなさそうだな」
「ああ、そんなんじゃない」
ラムセスは首を振る。
「ラムセス。お前が持っていた剣と粘土板、パピルスを調べさせてもらった。盗品だと思い
盗難届が宝物殿や博物館から出ていないか調べても、どこも出ていなかった。ということは、
これらの粘土板は本当にお前の物だという可能性が高い」
イブラヒムはラムセスの目の前に彼の持っていた物を見せる。一緒に薔薇の花束もついている。
「ああ、それは俺の物だ」
ラムセスはイブラヒムの黒い瞳をまっすぐ見つめる。イブラヒムもオッドアイを見つめ返し、少し姿勢を正す。
「信じられないがラムセス、お前は古代から来たと思われる。古代エジプトにはラムセスというファラオがいる。
お前はファラオか?」
ラムセスは唾を飲み込んだ。この男、やはり俺が今の世界よりずっと昔の人間だと分かっていたのだ。
「いや、ファラオではない。今は違うが、いずれなりたいとは思ってる」
「そうか……お前は多分ラムセス1世なんだろうな」
イブラヒムは昨日ラムセスから取り上げた指輪の印章を見せる。
「1世?」
「ああ、エジプトにはラムセスってファラオがたくさんいるんだ。この印章も調べさせてもらった結果、
1世の印章とぴったり同じだ」
イブラヒムは隣に置いてあった本を開いた。ラムセスは彼のほうに近寄り、本を覗き込んだ。
本にはラムセスの指輪印章のスタンプと全く同じ絵が描いてあった。
昼間、メフメトに案内されモスクと大砲を見たとき、ずっとずっと未来に来てしまったのかもしれないとは思った。
でも心のどこかで、嘘だったら、何かの間違いだったらいいとも思っていた。
第三者にここまで証明されるともはや否定の余地はない。ラムセスは深くため息をつく。
「一つ聞かせてくれ。俺のいた世界は、今の世界よりどれくらいの昔なんだ?」
イブラヒムは少し考え込む。
「うーむ、正確にはわからないのだが、多分2000年以上前かと……」
「に、にせんねん!」
ラムセスはその数字に倒れそうだった。昼間メフメトからオベリスクは1000年以上前からあるって
言われたが、まさかその倍の時代が流れていたとは。
「ラムセス、大丈夫か。ラムセス?」
呆然とするラムセスにイブラヒムは心配そうに声をかける。
「ああ」
蜂蜜色の額には冷汗が出ていた。予想以上にショックは大きい。
「ラムセス、元の世界へはどうやって戻るかはわかるのか?」
「わからない……。第一、どうしてこんな未来にきてしまったかもわからないんだ。俺は家の庭で
居眠りしていただけなんだ」
「そこでだ。提案がある、ラムセス」
「な、なんだ」
「ファラオにこんなこというのも気が引けるが……いや、まだファラオではないからいいのか?」
イブラヒムはブツブツ言い始める。何か迷っているようだ。
「なんだよ、どんな提案なんだよ。早く言ってくれ」
「この屋敷でしばらく働く気はないか? お前の剣の腕とその容姿はどこか他へ持っていかれるのは惜しい。
昨日、この家に侵入したときの剣の腕は相当なものだった。メフメトやシャフィークたち小姓の剣の練習相手に
なって欲しい。それと、お前の生きている世界のことも教えてほしい。もちろん、お前が元の世界に還れるよう
手助けもするつもりだ」
イブラヒムはやさしくラムセスに笑いかける。この笑顔にはもしかしたら裏があるかもしれない。
だが、今の自分には何も頼るものがない。首を縦に振る以外に選択肢はなかった。
「俺も、教えてほしいことがある。この本だ、この本に書いてある文字を教えてくれ」
ラムセスは自分の印章の絵があった本を指さした。
「オスマン語で書いてあるが……やはり読めないのか?」
ラムセスは頷く。
「いいぞ、オスマン語を教えてやろう。ほかの言語もメフメトに習うと良い」
イブラヒムは入口に控えていたメフメトとシャフィークを呼んだ。
「ラムセス、お前が古代から来た人間であることは、この3人の秘密にしておく。
お前も絶対に他の者に口外するな。まあ、口外したとしても頭のおかしい者と思われるだけだがな」
イブラヒムはクッと笑った。
「部屋も別に与える。この世界の生活に早く慣れるように。ラムセス大王」
イブラヒムはラムセスに爽やかな笑顔を向けた。ラムセスはメフメトに促されて部屋を出た。
「ラムセスの部屋はこちらになります。僕たち小姓と同じ部屋になります」
「こしょう?」
「イブラヒム様の身の回りのお世話をする人です。それにしてもすごいですね、
ラムセスはエジプトのファラオで古代人ですか!」
メフメトはラムセスの顔をじろじろ見る。シャフィークも興味ありげに見つめている。
「イブラヒム様はあなたの容姿も気に入ったのでしょう。金髪にオッドアイ、凛々しい顔立ち。
お顔が良くて殺されずによかったですね」
褒められ方がずいぶん物騒だ。だがこの世界には興味がある。色々なことを知ってから
様々な知識を吸収してから自分のいる世界に戻りたいと思った。