続ANATORIA食堂
〜第二部〜
| 1.アイスコーヒー |
| 2.お弁当 |
| 3.ホットウーロン茶 |
1.アイスコ―ヒー
「エリカにうちのグループから出るように言ったから」
グループのリーダー的存在、忍がサラリと流すように言った。
菜種は耳を疑った。昨日の夜、遅くまで本を読んでいたため、
一日中体がだるくて眠かったが、忍の言葉にだるさも眠さも一気に吹き飛んだ。
放課後、帰りにお茶でもしていかない? とグループのリーダー的存在、忍に誘われた。
よく帰りにお茶する乗り換えの駅の中に入っているファーストフードに忍と2人で入った。
驚きのあまり最初は声も出なかった。数秒の沈黙の後、自然と出た言葉は「どうして」だった。
「どうしてって当たり前でしょ。今まで仕方なくうちのグループに
置いてやったけどもう限界。大人しいふりしてるのか何だか知らないけど、
いつも相槌ばっかり打って、自分の意見も言わない奴見てるとむかつくのよね」
忍のような強い女に自分の意見なんて言える人なんて、クラスにいるのだろうか。
相棒のよしのだって一歩引いているところがあるのに……。菜種は心の中で呟いた。
「席替えだって、どうして違うグループの咲良になんか先に譲るわけ?
散々あたしたちに世話になってるのに!」
原因は席替えなの? よしのと隣の席になりたかったから?
なんてくだらない。休み時間もお昼も放課後も一緒にいるのに、
席も一緒の必要がどこにあるの。
菜種は心の中でそう思ったが、口から発することはできなかった。
不機嫌そうに喋り続ける忍の話を聞いているしかなかった。
「あの子、グループから追い出したから、菜種も話しかけちゃダメよ、
明日から口きかないようにね」
「口きかないようにって……、エリカが可哀想だよ」
忍はきつい瞳でチラリと菜種の顔を見た。見たというより睨みつけたと言ったほうが
この場合適当かもしれない。
「うちのグループを出るように、よしのに言ってもらったんだけど、
あの子、自分の悪いところも省みないですごい態度だったみたいよ。
グループから出るのもかまわないみたいらしいし」
「でもだからって……」
忍は飲みかけのアイスコーヒーを強くテーブルの上に置いた。
強くといってもファーストフードの紙コップに入ったアイスコーヒーなので
たいした振動もおきなかった。
「とにかく、エリカなんかと明日から話さなくていいからね、
メールも携帯もいっさいしないでよね」
女王様は不機嫌そうに菜種を睨みつけた。
忍と別れて、菜種は日も暮れた薄暗い空の下を重い足取りで歩いていた。
――どうしよう
菜種の心と頭に浮かんだ一言だった。
忍たちがエリカをよく思っていないことは知っていた。とくに席替えの一件があってから。
エリカがいないところでコソコソ陰口を叩いていたのもわかっていた。
今まで生返事をしてエリカの話題はうまくかわしていた。陰口を叩いていても
休み時間もお昼も一緒にいたし、例え個人に少々の嫌なところはあっても、
グループから追い出したり、仲間はずれにするなんてことは
もうしないものだと思った。義務教育も終わっている年齢なんだし……。
少しは大人になっているんだと思っていた。
しかしそうではなかった。「グループから出ろ」だなんて、やっていることが
小、中学校のときと全く変わらない。全然大人になんかなってない。
菜種は家につくと、自分の部屋にまで上がり制服をハンガーにひっかけた。
グループから出ろと言われたエリカはどうしただろう。泣いただろうか? それとも
無言で頷いたのか? おとなしいエリカの性格からして、よしのに言い返したとは思えない。
どうしたのだろう。
電話してみようかな……。
菜種は携帯電話を手にして、液晶画面をじっと見つめた。
高校の入学式の次の日、菜種ははじめて教室に行ったときのことを思い出した。
緊張のためか早く登校してしまった。自分が教室に一番乗りかと思ったら、
静かに席に座っている生徒がいた。それがエリカだったのだ。
目が合ったので軽く笑うと、エリカも笑い返してくれた。
大人しそうな子だな、というイメージはあったが、話はじめると会話のキャッチボールも
心地よく出来て、気が合うと思った。エリカもそう思っていてくれたはずである。
趣味の話、勉強の話、テレビの話、今まで何でも話してくれた。
ただ、少し引っ込み思案な所があって、
なかなか思っていることを表現できないところは確かにある。
忍たちと話していると、言葉少なだった。忍やよしのに圧倒されて喋るひまがないと
いってもいいかもしれない。そんなエリカのおとなしめな性格が、忍やよしのには
気に食わなかったのだろう。極めつけが席替え。クラスのボス忍のご機嫌は
45度の斜面をすべりおりてしまったのだ。
エリカから電話もメールもない。いつもだったら家に帰ってから2、3通は
メールがくるのに。ショックで電話もできないのか。
それとも、私も忍たちの仲間だと思われているのだろうか……。
菜種は携帯を持ったまましばらく同じ姿勢でいた。
『エリカなんかと明日から話さなくていいからね、メールも携帯もいっさいしないでよね』
アイスコーヒー手にした忍の顔が浮かんだ。
エリカから……きっとエリカから電話がかかってくるはず……。勉強のことも恋愛のことも
今まで何でも相談してくれたもの。きっと――。
菜種は充電器に携帯電話を置いた。
何時に電話が鳴ってもすぐに出られるよう、枕もとに携帯を置いて寝た。
12時頃、携帯メールが入り、エリカからと思い菜種は急いで携帯を取ったが、
『エリカとは話さないでね』
と、いう液晶画面の文字を見て携帯電話を投げ出したくなった。
結局、一晩中着信音は鳴らなかった。
朝――
エリカからの電話はない。やっぱり自分から電話すればよかった。
後悔しながらいつもの時間に家を出た。
忍たちに見つからないように、こっそりエリカに声をかけよう。通学の電車の中でそう思った。
2.お弁当
「おはよう、菜種!」
教室へ入ると、忍とよしのが、爽やかな笑顔で菜種に声をかけた。
「……おはよう」
菜種は2人の顔を見て、一瞬挨拶をするのを忘れてしまった。
菜種はクラスの中でも登校するのが早いほうで、40人いるクラスのいつも
3、4番目だった。エリカがその10分後くらいに来て、2人で朝のお喋りを
しているところにみんなが入ってくるのだ。忍やよしのはいつも遅刻ギリギリで、
菜種なんかより早く来たことは一度もない。朝のお喋りをする暇なんてなかった。
エリカと話をさせないために早く登校したのだろうか。
10分ほどたつと、エリカが教室に入ってきた。いつもの時間だ。
うつむきかげんで、何も言わずにエリカは自分の席についた。
「菜種、わかってるね」
忍は菜種の手首を強く引き耳元でささやいた。
エリカはこちらを見ようともしない。鞄から教科書や筆記用具をゆっくり出している。
机の中にしまって、ひとおおり準備が終わると教室を軽く見回していた。
誰もエリカと視線を合わす者はいなかった。うつむいて1時間目の数学の教科書を
パラパラめくりはじめた。
授業と授業の間の休み時間。忍とよしのはすぐに席を立ち、菜種のほうに寄って来た。
エリカはじっと椅子に座ったままだった。いつもだったらお喋りをしに菜種の方へ
来るはずである。
「エリカ……こっちに来る気はないようね」
「昨日あたしがはっきりグループから出てって言ったからね」
忍とよしのが顔を見合わせて軽く笑った。同じグループの葵や真佑美も集まってきた。
エリカのほうをチラチラ様子を伺いながら話している。
「エリカってば昨日すごい態度だったのよ。あたしがグループから出てって言ったら、
すねたように『分かった』って一言。別にうちのグループから出ても構わない感じだったの」
忍の相棒と呼ばれているよしのが、葵や真佑美に言った。笑いながら楽しそうに。
少なくとも菜種にはそう思えた。
「そうみたいね。自分の悪いところ直すって言えばまだかわいいけど、
『分かった』一言なんて……どうしてグループから追い出されることになったのか、
考えもしないなんて最低よね」
忍は満足げに言った。
直接、忍とエリカの仲に関わっていない葵や真佑美は、何も喋ろうとせず
忍とよしの、そして机に静かに座っているエリカの様子を伺っていた。
忍がエリカをよく思っていないことは2人も知っていたが、
新たなる展開にどうしたらよいか、迷っているようであった。
菜種の表情も伺っているようで、何度も目が合った。
「エリカはグループから出て一人でも大丈夫ってこと? 私だったら
そんなことできなぁ〜い」
「私も、もし一人になれなんて言われたら絶対謝っちゃう」
葵と真佑美が順番に言った。2人とも忍サイドにつくようだ。この場合の状況判断
からして妥当であろう。エリカを嫌って忍のご機嫌を取っていたほうが、
学校生活を楽に過ごしてゆける。
「普通はそうよね……」
忍はうっすら笑いながら真佑美と葵に視線を向けてそのまま続けた。
「まだグループに置いてくれって頭でも下げれば考えてやってもいいけど、
それもしないなんて強情よね。だいたいあたし、エリカみたいなウズウズした
大人しいタイプってあんまり好きじゃないのよね」
「あたしも忍と同じこと思ってた。なんか猫かぶってるみたいで好きじゃないな」
私はあなた様の味方です! と言わんばかりの表情と口ぶりでよしのは賛同した。
「確かに、あんまり喋らなかったし、何考えてるかわからないところはあったわよね」
「……うん」
葵と真佑美も相槌をうつ。2人とも忍やよしのほどエリカは嫌っていないはずだ。
だが忍には逆らえない。グループを引っ張る、クラスでも存在感のある忍に
反論する勇気は2人とも持ち合わせていなかった。
一緒に文句を言っていれば、犠牲になることはない。
エリカという生贄を捧げれば――その気持ちは菜種にも全くないと言ったら嘘になるであろう。
現にここで言い返せないのだから。このまま葵や真佑美と一緒に相槌を打てば、グループの輪の中に
いることはできる。かといって、エリカをこのまま一人に?
エリカがグループを追い出されたことは既にクラス中に広まっているようだった。
女の噂は伝導率が高い。光までとはいかないが、かなりのスピードで伝わる。
エリカに話しかける者は誰もいなかった。別のグループの者も様子を伺っているのか、
それとも関係ない、関わっては大変だと思っているのか、エリカを視界に入れていない
ように思えた。噂と一緒に自身を防御する機能も伝播していたのだ。
「菜種、あんただって、もうエリカのお守りしないでせいせいしてるでしょ」
「お守りだなんて、私はそんな……」
「エリカみたいな子は、少し一人になったほうがいいのよ。
そうすれば、あたしたちの……友達のありがたみってものがわかるでしょう」
「でも、一人にするなんて……やっぱりちょっと」
菜種は、静かに机で本を読んでいるエリカに視線を向けた。
「菜種! 仏心なんて出さなくていいからね。あんたはあたしたちと一緒にいればいいの!」
忍のきつい口調に菜種はビクッとした。自分たちが言われたわけじゃないのに、
葵や真佑美も一緒に驚いていた。
――お昼休み。
グループ同士で固まってお昼を食べる。いつも6つの机をくっつけていた。
だが今日は5つ。6つ目がエリカの机だった。エリカは机を動かさず、
お弁当を出して一人で食べていた。
さすがに他のグループの子たちも、一人でお弁当を食すエリカをチラチラと
視線を向けていた。エリカを噂していると、声は聞こえないけど態度や素振りですぐにわかった。
教室で、お昼を一人で食べる。周りはみんな何人かで固まって楽しく
お喋りをしながら食べている中、一人でいるということは過酷なことだ。
自分がその立場になっていないが感じることはできる。
些細なようだが、まったく些細でない。
菜種は見ていられなかった。表情を変えないで、お弁当に箸をつける
エリカの姿に胸が痛んだ。別のグループの子たちの視線、コソコソ内緒話。
すべてエリカの目に、耳に享受されていることであろう。教室内のザワザワした声や
音が、そのまま重みとなって肩にのしかかってくるようだった。
このまま、このままエリカを見捨てるのか。昨日のお昼はあんなに仲良く
話をしていたのに……。どうしてこんな状況に……。
菜種はお弁当の蓋を開けたまま、しばらく呆然としていた。
放課後も忍たちにつかまった。用事がなければ、エリカとは
いつも駅まで一緒に帰っていたのだが、そうはさせてもらえなかった。
「菜種、一緒に帰ろう」
表面はニッコリやさしそうな笑顔だったが、その瞳の奥には黒くにごったものが感じられる。
エリカと自分を接触させないよう必死なことが分かった。
次の日のお昼休み。エリカは教室にいなかった。お弁当を持って
どこか出て行ったようだった。エリカと同じ中学でそこそこ仲のよい友達が別の
クラスにいるから、友達の所にいったのだろうと菜種は思った。
忍たちのほとぼりが冷めるまで、そのほうがいいと思った。
エリカのいない教室を見渡す。お昼を食べるのに、少ないところは2,3人。多いところは
6〜8人のグループができていた。気のあったもの同士集まって弁卓を囲む。
クラスという小さな集団の中にも社会が出来ているのだ。
特に女子校のせいか、群れを為す傾向が強いのだと思う。
その中でも、菜種のいるグループは強い群れだと思う。忍、よしのを筆頭に、
真佑美も葵も割とクラスでは目立つほうで、中心的なグループであることは確かだ。
菜種にとって、このまま忍のグループにいれば安泰である。
どうせ群れるなら強い群れにいたほうが楽である。強い群れとはどういうものか。
人数が多いか、グループに強い長がいるかどちらかだろう。その強い長というのが忍だった。
クラスの長と言っても過言ではない。
菜種は、自分が逃げていることがわかった。正直、忍は怖かった。
忍に嫌われると、クラスのみんなから仲間はずれにされるような錯覚さえ感じた。
次の日も次の日も、エリカは休み時間一人きり。お昼は教室から出て行ってしまった。
忍やよしのが怖い気持ちはあったが、それでも一人のエリカを見ているのは辛くて、
隙をみて、何度も話し掛けようと思った。
だけど、日が経つにつれどんどん話し掛けにくくなってきた。
実際には何と話し掛けたらよいか菜種にはわからなくなっていたのだ。
今更話し掛けても仕方がないのではないか、自分も忍たちの仲間と思われているのでは
ないか、そう思うようになってきた。
どうしてグループから外されたその日、すぐに言葉をかけなかったのだろうと何度も何度も後悔した。
一日一日と、エリカへの裏切りの重さが増して、距離が
どんどん離れていくようで……エリカが遠い存在になっていくような気がした。
直接話し掛ける勇気は、もはやどうしてもなかった。だけどメールなら……。
携帯メールならなんとかできるような気がした。それに、学校でエリカに話し掛けるのは
忍たちの目もあるから難しかった。
菜種は言葉を選んだ。『今まで何も話し掛けられなくてごめん。
エリカのことすごく心配してる』そのような内容のメールを思い切って送信した。
数分後、菜種の携帯電話が音と光でメールの着信があることを知らせた。
(エリカっ!)
心の中で叫び、すぐさま携帯電話の液晶画面を食いいるように見た。
Returned mail: see transcript for details
先ほどエリカに送ったはずのメールがそのまま戻ってきていた。
送信アドレスが存在しないという表示だった。メールアドレスが存在しない。
エリカはアドレスを変えたんだ……。もう私達とは関わりを持ちたくないってこと?
菜種の心臓はショックで冷たくなっていたが、鼓動だけはいつもより早くなっていた。
携帯の電話のほうはどうだろう?こちらも変えてしまったのか。
菜種はエリカの番号を表示し、通話ボタンを押そうとした。だが、怖くなってしまった。
こちらの番号まで変わっていたら、それこそもう係わり合いをもちたくないと
思われているのかもしれない。もし通じたとしても、今更話してくれるだろうか?
そう思うと怖くて通話ボタンを押せなくなった。
***
「ねえ、エリカがかわいそうだよ」
綾芽という、172pという女子にしては高身長を持つ少女が菜種に話しかけた。
背が高いだけで目立つのに、その上、目鼻立ちも整っているので更に目立った。
スラリとした体系と美しい顔立ちを鼻にかけることもなく、
気さくな優しい少女であった。もちろんグループは違ったが、綾芽はエリカと隣の席であった。
たまにエリカに話し掛けている姿を何度か見た。
忍はたまたま教室にいなかった。もちろん、綾芽も今の状況を知っている。
「忍たちが怖いのはわかるけど、エリカと一緒にいてあげられない?
私、席が隣でしょ。もう一ヶ月も一人なんだよ。見てられないんだよ」
「うん……」
「菜種はエリカのこと嫌いじゃないんでしょ」
「もちろんだよ。嫌いなわけないじゃない」
エリカを心配してるのは自分だけじゃなかった。他のグループの子だって、
わかっているんだ。このまま、このままエリカを一人にしておけないと……。
家に帰ってからも散々悩んだ。もうすぐ定期テストがある。
勉強もしなければならないが、エリカのことが気になって、なかなか
手がつかなかった。
どうやって忍やよしのを振り切って、エリカに話し掛けようか。
試験範囲の教科書を開いて、数学の公式を見ながらもエリカのことばかり考えていた。
数学の問題は、ノートを参考にすれば答えはでたが、エリカのこと
だけはよい回答は得られなかった。
どうしたらいいか、今の菜種にはわからない。自分だけでもエリカと一緒にいてあげれば。
何度もそう思ったが、忍たちのことをふっ切れずにいることも確かだ。
何もできない自分が嫌で嫌でたまらなかった。
エリカへの裏切りの日々また一日一日と増えてゆき、テストも3日後に迫った朝。
ぼんやりと校門をくぐった菜種の視界に、エリカと中学が一緒だった
柊木友理子が入った。
お昼休み、居場所のないエリカ。お昼は友理子と一緒に食べているはずだ。
友理子にエリカのことを聞いてみた。
「エリカ? お昼休みなんかにきてないけど……」
「えっ? エリカ、柊木さんのところに行ってないの?」
「うん、教科書忘れたからかりに来るとか、そういったこと意外には来てないけど……」
友理子は不思議そうな顔で菜種を見つめていた。
「エリカがどうかしたの?」
「ううん。なんでも……」
菜種はその場で友理子と別れて教室へ行った。
エリカはどこでお昼を食べているのだろう。友理子の様子からして、
エリカがいじめられていることを知らないようだった。――エリカは
友理子に何も言ってないんだ。だとしたらどこでお昼を食べているのだろう?
誰もいないところで、本当に一人で……。友理子と一緒にいると、
勝手に思い込んでいたのは自分だ。もし自分がエリカのようにクラスに
居場所がなくなったら、他のクラスに逃げるだろう。友理子とは
仲がよさそうだったから、てっきり友理子に助けを求めていると
思ったのに……。菜種はショックだった。
お昼休み。授業が終わるとすぐ席を立った。忍たちに捕まらないうちに、
エリカを呼び止めた。
「ねえ……エリカ。いつもお昼どこで食べてるの?」
エリカは呆然としていた。クラスに話しかける者がいるわけないと思っていたのだ。
驚きに数秒硬直していた。軽く呼吸すると、ゆっくりと穏やかに言った。
「大丈夫だよ。私は一人でも大丈夫。私なんかと一緒にいると、忍たちに
嫌われちゃうよ」
「でも!」
言葉と一緒に、菜種はエリカの左腕をつかんだ。
「菜種! 何やってるの。そんな奴と話すんじゃないよ!」
背中からよしのの声がした。やっぱり邪魔が入った。と菜種は思いつつも
エリカの腕は放さなかった。
「私のことはいいから、よしののところへ行きなよ……」
エリカは何もかも悟ったように言いながら、菜種の手を引き剥がした。
エリカはうつむいて逃げるように教室から出て行った。
「ちょっと菜種、何やってるの!」
よしのがヒステリックにかけより、菜種の肩をつかんだ。
菜種は呆然とエリカの後姿を見つめていた。
「仏心は出すなって言ったでしょ、菜種」
厳しい表情で忍が忠告した。この場合、警告とも取れるかもしれない。
3.ホットウーロン茶
それから、忍とよしののガードは更に固くなった。休み時間やお昼はもちろんのこと、
ぴったりとくっついて、エリカに話かけさせないようにしていた。
もっともテストがあったから、テストのほうにも集中しなければならなかった。
いつもテスト前になると、エリカと一緒に勉強していた。エリカは数学が苦手だった。
菜種も得意というわけではないが、いつも平均点以上の点数はとれていたので、
基礎的なことはエリカに教えていた。エリカは大丈夫だろうか?
こんな環境のなかで勉強に身が入るだろうか?友達も勉強もそうだけど、
高校生活、これから一人ではやっていけない。なんとかしなくっちゃ……。
葛藤だけが、菜種を辛く苦しめていた。
結局、なんの進歩もないまま、そのままテストに入った。
勉強をしていても、集中することができず上の空になりがちだったから、
少々成績は下がるかもしれない。そう感じた。
テストが終わり、数日経つと結果が返ってきた。クラスで10番以内のみ、
順位が出るのだが、なんとその中にエリカが入っていたのだ。
ギリギリの10番だったが、エリカの名前があったのだ。
はっきり言ってしまうのも悪いが、エリカは成績は良いほうではなかった。
進級も危ぶまれるというほどではないが、分類すると中の下というところだ。
クラスの平均点前後というところだ。今の環境で、頑張るだなんて、
勉強したいただなんて、菜種には信じられなかった。
自分は忍やよしのが怖くて、逃げてばかりで何もしていない強く実感した。
「エリカの奴、どうしたんだろ。急に勉強なんかして10番以内に入るなんて……」
忍が不思議そうな顔をしながらアイスコーヒーにストローをさした。
テストが終わり、勉強する心配もなく、放課後安心して寄り道ができた。
またもや菜種は忍たちに捕まって、いつものファーストフードに連れて行かれた。
「誰も友達がいなくなって、ヒマになったから仕方なく
勉強でもしたんじゃなぁ〜い?」
アイスティーにミルクを入れながらよしのは楽しそうに笑った。
「そっか、こうやって放課後寄り道する友達もいないんだものね。
家に帰って勉強するしかやることがなかったのね、きっと」
きゃはははと忍はアイスコーヒーを持ったままトーンの高い笑い声をたてた。
「エリカは私たちのグループから追い出されたせいで、
成績も上がって逆によかったんじゃないの?」
「そういう考え方もあるね」
真佑美と葵が、忍たちに会話を合わせて一緒に笑った。
菜種は聞いていられなかった。安定した状態でも勉強するって大変な
ことなのに、クラスから外された心理状況でがんばるってどんなに辛かったことだろう。
「ちょっと私、お手洗い行ってくる」
その場にいられなくなって席を立った。他4の人はチラリと菜種に視線を移したが、
そのまま話を続けていた。菜種のホットウーロン茶が静かに湯気を上げていた。
菜種は女子トイレの個室に駆け込むように入った。
どうしてエリカばっかり。一人になってもあんなに頑張ってるのに、どうして!
悔しくて悔しくてやまらなかった。自分を悪く言われるよりもっと苦しい。
菜種の二つの黒い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。どうしてエリカばかりここまで言われなくては
いけないのだろう。自分だけが守られて、安泰して学校生活が
送れればいいの?エリカが何をしたっていうのだろう?忍やよしのの
勘に触ったからってどうしてここまでひどい言われ方をしなければ
いけないのだろう。忍やよしのからエリカのことを聞くのはもう耐えられない!
菜種は涙をふいてトイレを出た。とりあえず、今日はもう家に帰ろう。
注文したウーロン茶もちょっとしか飲んでないけど、この場にいるのはもう嫌だ。
鏡を見て、顔を整えてから、みんなのところに戻った。
菜種の顔を見た真佑美が「あ、ちょっと!」と、焦ったように忍の肩を叩いた。
忍とよしのは、トイレから出てきた菜種に背を向けて、一緒に何かを見ていた。
何か雰囲気がおかしかったので「どうしたの?」と大ボスコンビの顔を覗き込みながら
声をかけた。
――菜種は言葉を失った。忍とよしのがぴったりくっついて見たいたものは、
菜種の携帯電話だったのだ。
「ちょっと……何してるの!」
「あ、菜種。一応、エリカとは連絡とってないみたいね」
忍が軽く言った。
菜種が席を外した隙に、忍とよしのは菜種の鞄から携帯を取り、
着信と送受信のメールを勝手に見ていたのだ。よく考えたら、菜種は
鞄のチャックを開けっ放しで席を立ってしまった。そこから携帯が
顔を出していたのだろう。先日、お昼にエリカに話し掛けてしまったから、
連絡をとっていないかきっと不安になったのだ。菜種の携帯に手を伸ばしたのだ。
「本当に彼氏いないんだ。女の名前ばっか」
着信履歴を見ていたよしのがせせら笑った。
「やめてよっ!」
菜種はカッとなり、よしのの手から無理やり携帯を奪った。
運悪く、携帯を奪った手は、勢い余って菜種ののみかけのホットウーロン茶にぶつかった。
――悪いことは続くものだ。故人の言葉でこのような言葉があったような気がする。
湯気をあげているウーロン茶は更に、忍のスカートの上に不時着してしまった。
「熱っ!」
忍が短く叫んだ。
「大丈夫?」
一部始終を見ていた真佑美と葵が焦って声をかける。
「なにすんのよっ、菜種!」
忍がヒステリックに声をあげた。
――ああ、もう最悪。菜種は心の中で呟いた。
「ご、ごめん」
小さな声で言った。店員も寄ってきて、「お客様大丈夫ですか?」と声をかけた。
忍はぶつぶつ言いながら、スカートをふいていた。
ウーロン茶をぶちまけてしまったのは悪かったけど、
もう我慢ならなかった。いくら仲がよくて同じグループだからって
やっていいことと悪いことがある。人の携帯勝手に覗くなんて……。
菜種はある思いを強く心に決めた。
次の日の朝、いつもの時間に家を出て、いつもの電車に乗った。
学校にも普段どおりの時間に着いたが、すぐ教室に行かなかった。
教室に行けばまた忍とよしのに捕まってしまう。
予鈴ギリギリに駆け込んで、誰とも話さず授業に入った。
休み時間、やはり忍とよしのは菜種を監視するように一緒にいた。
エリカに話し掛けたかったけど、チャンスはなかった。
グループを出されて1ヶ月。何も話さなくなって1ヶ月。
一番つらいときに声をかけてあげられなかった。一緒にいてあげられなかった。
今更遅いかもしれない。でも、今日こそはこのままじゃいけない。
絶対にエリカの話し掛けるんだ。同情はいらないって言われてもいい!
やっぱり私、エリカのこと好きだ。
午前の授業が終わった。午前中、最後の授業は英会話だった。
ネイティブの先生が直接教えてくれる授業で、この先生が、高校の英会話の講師には
もったいない稀に見るカッコよさだった。
名前をカイル先生という。イギリス出身なのそうだが、トルコ人の血が
混じっているらしい。外国人なので、彫りは深いのはもちろんだが、くどすぎる深さではなかった。
凛々しい眉の下にくっきりと浮かび上がっていて、鼻筋もすっと通り文句のつけようのないハンサム。
絵に描いたようなアイスブルーの瞳は、まるで吸い込まれるように美しく、3秒見つめられたら、
女生徒の半分はとろけてしまうであろうと言われる。少女まんがから飛び出してきた
ヒーローのように理想的な美男子であったのだ。容姿一つとっても生徒に絶大な人気だったが、
授業もノリがよく面白かったので、皆、カイル先生の授業がある日は、
例え38℃の熱があっても授業に出てやる! という生徒が多かった。
もっとも、カイル先生の授業に出たところで、余計熱が上がってしまいそうではあるが……。
授業が終わると、瞳をハートマークにした女生徒が質問におしかけるのが毎度のことであり、
いい男が大好きな忍やよしのも、この日、カイル先生にひったりくっついたのだ。
今がチャンスだ。菜種はエリカを視線で追った。
エリカは席を立って、教室を出ようとしていた。
「エリカ!」
菜種の声に一瞬空気が止まった。
もちろん菜種はそんな大きな声を出したわけではない。
カイル先生に夢中の忍やよしのが驚いて振り返った。他にも
教室の中のいくつかの視線が2人に向けられた。
「どうしたの?」
驚いた表情でエリカは菜種を見つめていた。
「ねえ、お昼一緒に食べよう」
菜種にとって、やっと言えた一言だった。この一言のために、自分はどんなに悩んだのだろう。
エリカはチラリと忍とよしののほうに視線を向け、困ったような表情をした。
「いいよ、私一人でも大丈夫だから……」
ここで引き下がったら、今までと同じ。もうエリカを一人にはさせない。
大ボスコンビに何を言われようと、何をされようと構わない。
「ううん、いいの。一緒に食べよう」
「だめだよ、いいよ」
「もういいの。やっぱりエリカを一人にしておくなんて耐えられないもの。
私はエリカと一緒にいる!」
菜種ははっきりと言い切った。忍たちはヒソヒソとこちらを見て話している。
「でも……私お弁当持ってきてないし……」
「じゃあ、購買でパンでも買ってくる?」
エリカはしばらく喋らなかった。考えているのだろう。きっと、私が
エリカと一緒にいることによって、忍たちからひどい仕打ちを受けるのでは
ないかと心配しているのだろう。エリカはまっすぐに菜種を見つめる。
「本当に、私と一緒でいいの?」
「うん」
強く頷いた。
「じゃあ……お昼食べるのにいい所があるの。ついてきて!」
エリカの表情がパッと明るくなった。まるで受験発表で受験番号を見つけたときのように。
こんなエリカの笑顔、しばらく見ていなかった。
よかった。エリカが話をしてくれた。菜種は涙が出そうなくらいホッとした。
エリカの顔を見た。頬も口もとも瞳もすべて笑っていた。
「裏門からすぐの所にね、ANATORIA食堂っていう食堂があるの。私はいつもそこで……」
嬉しそうなエリカの表情が固まった。キョトンとキツネに抓まれたかのように
目を丸くしている。
エリカの視線の先は古びた家があった。窓はくもりがひどく、中は見えなかった。
砂ぶきの壁は汚れており、何年も放っておいた建物であるように見えた。
古びたドアには埃をかぶったツタンカーメンのマスクが張り付いていた。
「どうしたの? ここは誰も住んでないはずよ。食堂なんてなかったと思うけど……」
エリカは何も言わずにツタンカーメンのドアのノブを引いた。
ガチャリ。カギがかかっている。ドアは開かなかった。
こんなツタンカーメンのついたドアのある空家なんてあったかしら?
菜種は記憶の戸棚をまさぐった。何度か裏門のほうには来たことあったけど、
どうもこんなツタンカーメンは記憶にない。でも、そんなことは今はどうでもよかった。
「エリカ、いつも校舎の裏でお昼食べてたの?」
「え……うん」
「ここ、日当たりがよくって気持ちいいね。だけど一人で食べてるんじゃ
寂しかったでしょ。これからは一緒にいるからね」
今までゴメンネ。そういう思いを込めて、涙がでそうなのをこらえて笑いかけた。
エリカはまっすぐこちらを見つめていた。瞳が潤んでいる。やっぱり寂しかったんだ。
真昼の暖かい太陽が、2人の間にやさしく注ぎこむ。菜種はここ一ヶ月息苦しさから
やっと開放されたような気がした。肺の中にやっと充分な酸素が送り込まれ、もやもやした不純物が
すべて吐き出せたような気持ちになった。
――よかった。心からそう思った。
これが一番自分にとっての素直な気持ち、素直な行動なんだ。
菜種はもう一度、エリカが先ほど気にしていたツタンカーメンのドアを見た。
さっきは感じなかったけど、このツタンカーメンのマスクはテレビや資料で見る
マスクより少し微笑んでいるような気がする。きっといままでエリカのことを
見守ってくれていたんだ。菜種は思わず無機物であるツタンカーメンのマスクに
向かって笑いかけた。
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