11月24日
『第二回 ヒッタイトの歴史後編』
講義は1時半から。講座を受ける教室(会議室のようなところ)に行くと、
やはりヒッタイトまマイナーなのか、私たち3人の飛び入り受講者を除くと、
5人の受講者しかいませんでした。
私たち天河ファンの間では、ヒッタイトは江戸時代と同じくらいに有名なんだけどねェ〜(笑)。
講義をして下さるのは、中近東文化センターの研究員の先生。
前にキックリ文書の講座を聞いたときと同じ先生でした。
前回(1回目)の講義のとき、ヒッタイトの歴史前編のお話
だったらしく、今回は後編からのお話でした。
後編と言っても、ちょうど天河の世界からのお話で、
まずはシュッピルリウマ1世の名前が出てきました……。
以下は主な講義の内容です。
***
シュッピルリウマ1世は、海外遠征(北シリアなど)を積極的に行い
ヒッタイト帝国を一大王国にのしあげました。北シリアは古王国時代から重要な拠点で、
特にカルケミシュは海外交易上、大変重要な都市だったらしいです。
ムルシリ2世のときヒッタイト帝国歴史上、最大の繁栄を迎え、
エジプトをはじめ近隣諸国から一目置かれる存在となりました。
ここで先生が、『ムワタリ2世の浮き彫りが、南東アナトリアの
シリフテというところある』と言っていました。
『ふむふむ、デイル君の浮き彫りね(~_~)』
ねねの頭には、篠原先生のデイル君(12歳)が壁画になっている
状態が描かれました。そんなわけないのに……(笑)。
またその頃、エジプトはアマルナ時代と呼ばれる時期で、
セティ1世(ラムセス1世の息子)は、北シリアに軍を進めました。
ヒッタイトとエジプトは緊迫した状態が続き、ヒッタイト側についていた
アムール国がエジプトに寝返ったことがきっかけで、
カデシュの戦いが両国に起こりました。
結果は引き分け、あるいはヒッタイト側の優勢ということで、
両国間(ハットゥシリ3世とラムセス2世の間)に平和条約が締結されました。
平和条約のオリジナルは、銀製のタブレットに描かれていたと言われます。
複製(写し)がイスタンブールの考古学博物館にあるそうです。
ラムセス2世がハットゥシリ3世の娘ナプテラを妻にすることによって
両国の友好関係は更に強固になります。
ラムセス2世は、往復書簡でハットゥシリ3世をエジプトに招待しましたが、
ハットゥシリ3世はいかなかったそうです。
ですが、アブシンベルには、権威を誇示するため、
ハットゥシリ3世とナプテラがエジプトへ一緒に来たレリーフが描かれています。
スライドの写真を見せてもらい、また私はエジプトにも行ったことが
あるのですが、ぜ〜んぜん覚えてなかった……。
***
講義の後半戦、トルコツアーで行ったフラクティンのスライドが出ました。
ハットゥシリ3世とその妃プドゥペパのレリーフのある遺跡です。
レリーフの細かな説明がスライドを使ってあったので、
必死にメモをとりました!だって!旅行記のフラクティン編更新してないんですもの!(爆)
『きゃー!更新に大助かりィ〜』
と、猛烈な勢いでメモを取っていたら、隣の席の人がじっと見ていた……。
場所はトルコ、フラクティン。 写真はもちろん、ツアーに行ったときのものです。 講義の説明と、ツアーの現地ガイドさんの説明をあわせたものです。 プドゥヘパさんは大王妃で国内政治、だけでなく、外交交渉にも重要な役割を 果たしていたことが考えられます。 |
***
次にハットゥシリ3世の息子、のお話に移ります。
1986年 ハットゥサの遺跡スフィンクス門の近くで、青銅板に楔形文字の
描かれた文書が完璧な状態で見つかりました。
青銅板の内容は、トゥトゥハリヤ4世と従兄弟クルンダ
(ムワタリ2世のウルヒ・テシュプではない息子、タルハンシャという南国の王)との条約です。
今まで見つかった文書はすべて粘土板で、これは大発見だったそうです。
この日のトルコの8時のトップニュースにもなったそうです。
ヤズルカヤ |
***
トゥトゥハリヤ4世のあと、アルヌワンダ3世、シュッピルリウマ2世に王が代わりました。
シュッピルリウマ2世の作った壁画が、ハットゥサの南城塞(サザンフォート)にあります。
1989年に発見されたもので、シュッピルリウマ2世がキプロス、南アナトリア、西アナトリア
に遠征したときの様子が描かれています。
その後、紀元前1200年頃火災によって帝国は滅びたと想像されます。
海の民によって滅ぼされたと書かれる文献が多いのですが、
ヒッタイト帝国の首都ハットゥサは海の民は直接は影響を受けなかったそうです。
なぜなら、ハットゥサは内陸部だから。海岸沿いのヒッタイトには影響したかもしれませんが、
首都ハットゥサまで海の民が入ってきたとは考えにくいとか……。
滅びた原因は、カシュガ族の侵略(ズワの子孫か?笑)ではないかという一説もあるそうです。
滅亡後、ヒッタイトの歴史はカルケミシュに受け継がれていきます。
カルケミシュもいずれ新アッシリアの支配下入ります。
ヒッタイトの楔形文字も滅びてしまいますが、象形文字だけは受け継がれたそうです。
他にも色々、スライドを使って説明がありました。
ハットゥサの遺跡のスラィドが多かったので、行った場所ですし、
親近感が沸いておもしろかったです。
最後に楔形文字の宿題が出ました。資料を元に調べてくるようにと……。
う〜ん、全然わからないわ〜、どうしましょう???(笑)
***
講義が終わって、ななちゃんとyukiちゃんは無理だけど、
私は中近東文化センターまで通おうと思えば通える距離なので、
続きを受講できないかどうか受付の人に聞いてみました
料金は同じだけど、受講しても大丈夫とのこと。
ちょっと、いやかなり?出費ルリウマが痛いけど、3月までのあと10回
受講してみることにしました。
トルコツアーといい、ヒッタイト講座といい、なんだかここまで来ると、
もはやヒッタイトに運命すら感じます(笑)。
だって、ヒッタイトの講座を受けられたのも本当に偶然だし、
私が今こうやって、ヒッタイト講座レポートを書いたり、
旅行記を書いたりできるのも、仕事やその他の環境面でもかなり偶然が
重なって、ここまでなっているのだと最近気づきました。
我ながら、すごいなーと思いますが、もう運命だと思って、
できるところまでやってみようと思います。何と言っても楽しいし♪
嗚呼、雪とか降らないでねー。出かけるのがイヤになるから〜。
これから10回、ヒッタイト講座レポートを更新する予定なので、
お時間のあるときにどうぞ見にいらしてくださいませ♪
そしてそして、ここでちょっと目標を持ってみようと思います。
ヒッタイト語、楔形文字をマスターしたら……
篠原先生に楔形文字でファンレターを書く!
どうか応援してください(笑)
余談ですが、ヒッタイトの歴史についてはトルコツアー準備編で、
ねねの少ない脳みそでまとめたページがあります。
もしよかったら見てね。
BACK