天と天河の神隠し
(天河版千と千尋の神隠し)
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3.オクサレさま
「ユーリ、こんな早くからどこに行ってたんだい?」
カイと別れて部屋に戻ると、すっかり油屋は動き始めていた。
各々の布団をたたみ、湯女と呼ばれる油屋で働く女たちは慌しく支度をしていた。
口は悪いが面倒見のよいハディは、早朝からいなくなったユーリを
心配していたのだ。
「うん、ちょっとね」
ユーリはハディにつれられて仕事場へ行った。
油屋は神様が疲れを癒しに来るお湯屋。ユーリたちには湯殿の掃除の仕事が
待っていた。それも今回2人に任せられたのは、数ヶ月使っていなかった大湯の掃除のという
大変な仕事。人間の子であるユーリへのみえみえの嫌がらせであった。
「よりによって大湯だなんて……こりゃ掃除が大変だよ」
ハディの言ったとおり大湯は何ヶ月もほったらかしにされた風呂で、
大きな湯船にはコケが生え、触るとヌメヌメとした。埃もたくさんかぶっており、
歩くたびに舞い上がった。
「仕方ない、やるしかないようだね」
ハディは腰に手を当てて汚い風呂を見渡して大きく溜息をついた。何から始めたら
よいか戸惑っているユーリにテキパキと指示を与えた。
埃を払い、ゴミを集めて、湯船のヌメヌメを取る。もともとユーリは家のお手伝いは
よくするほうだったが、こんな大きなお風呂そうじなんてやったことがない。
小さな象牙色の手で一生懸命に手を動かした。積もった汚れにすぐに雑巾は真っ黒になり、
ユーリは雑巾をすすぎに外へ出た。
ガラス戸を開けて淡い紫色のあじさいが咲いている庭に出ると、
湯屋の朱色の橋にいた薔薇模様のマントに蜂蜜色のお面をつけた男がユーリを方を
じっと見つめて立っていた。
「ここの戸開けておきますね」
薔薇マントの男が客だと思い込んだユーリは、中に入れるように戸を少し開けて、
すすいだ雑巾を持って床をバタバタ言わせながら大湯へ戻った。
ユーリが去った後、薔薇マントの男はゆっくりと湯屋の中に上がりこんだ。
「ユーリ、ここの掃除はいいから、あんたは大番頭のところへ行って湯札をもらってきてくれ」
ハディは掃除の手を休めてユーリに言った。
「湯札?」
「そう、薬湯の札だよ。この札がないと湯船にお湯がいれられないんだ。
大番頭のカッシュのところへ行ってもらってきてくれないか」
ハディから湯札をもらう場所を聞いて、大番頭のいるカッシュのところへ行った。
「ダメダメ、お前のような人間にあげる湯札なんてないね!」
大番頭カッシュとは、昨日湯婆婆ナキアのところへエレベーターで行くときに
会った蛙男だった。
「そんな……ハディから湯札をもらってくるように言われているんです。
お願いします!」
「他を当たんな!」
ユーリは必死であったが、カッシュは人間であるユーリに大変冷たかった。
するとカッシュの横に、湯屋の朱色の橋に立っていた薔薇模様のマントに
蜂蜜色のお面をつけた無表情の男が現れた。ユーリは客だと思い軽く会釈をした。
数秒間、ユーリと薔薇マントの男の視線が重なったと思うと、
突然、カッシュの手元にあった湯札が浮かび上がりそのままユーリの手の中に
収まった。
「ありがとう。カッシュ大番頭さん!」
ユーリは蛙男カッシュにお礼を言うとすぐに走り去った。
「ちょっと待て! 人間の娘。なんで勝手に湯札が!」
背中からカッシュの呼ぶ声が聞こえたが、そのままハディの所へ戻っていった。
「へェ、こんないい湯札くれたんだ。てっきり断られるかと思ったのに……」
湯札とユーリを見比べてハディは不思議そうに言った。
「まあいいや。この湯札をね。壁に付いている通気構に送ると、タロス釜爺のところに
届いて、薬湯を出してくれるんだよ」
ハディは湯札を通気構に送った。1,2分たった頃、壁から薬湯が飛び出し、
きれいに洗われた湯船に注がれていった。
「じゃああたしは朝食を取りに行ってくるね。アンタはここで待ってて」
一仕事おえたハディは朝食を取りに行った。
きれいに掃除された大湯に一人残されると、そこへ先ほどの薔薇マントの男が
現れた。男は両手いっぱいに湯札をユーリのもとへ差し出した。
「こんなにたくさん……どうしたの?」
ユーリには男の真意がわからなかった。
「ア……ア……アア……」
両手をユーリの顔の前に近づけた。やっとユーリは自分のために湯札を
持ってきてくれたのだとわかった。
「だめよ。一つでいいの」
蜂蜜色の仮面の男に言い聞かせた。
すると仮面の男の顔は寂しそうな表情に変わり、そのまますうっと姿を消していった。
ユーリの前に数枚の湯札が散らばった。
***
ちょうど同じ頃、湯屋の経営者ナキア湯婆婆は、玄関で大変な客を迎えていた。
縦横5メートルはあると思われるヘドロの固まりの”オクサレさま”である。ものすごい異臭であった。
オクサレさまは汚れを落とすために湯屋を訪れたのである。
「ユーリ、朝食持ってきたよ〜。食おうぜェ〜! うわああああ!」
最後の悲鳴はオクサレさまを発見した悲鳴である。持ってきた朝食もあまりの悪臭に腐ってしまった。
ナキアはとりあえずオクサレさまを先ほどユーリたちが掃除をしたばかりの大湯に通した。
「ユーリ! さあ、お前の出番だよ。オクサレさまのお世話をしておやり」
ナキアは新入りのユーリに命じた。
オクサレさまが薬湯の溜まった湯殿に入ると、高価な薬湯もたちまち泥水に変わった。
ユーリは足し湯をしようと思い、オクサレさまの前にぶらさがっている
足し湯の縄を引こうと近づいた。ユーリはオクサレさまの悪臭に耐えながら
必死に足し湯の引き綱を引いた。足を滑らしオクサレさまの使っている
泥水の中に飛び込んでしまったが、足し湯には成功し、大量の薬湯が湯船に注がれた。
するとユーリはオクサレさまの異変を発見。オクサレさまのヘドロの固まりの中に
自転車のハンドルのようなものが刺さっていたのだ。
「なんか。ここにトゲがささってるみたいなの!」
側にいたハディに叫んだ。
「ナキア湯婆婆、オクサレさまの体にトゲがささってるんだってさ!
なんとかならない?」
ハディの言葉に強く頷いたナキアはロープを取り出してユーリたちの方へ投げた。
「オクサレさまはただのヘドロの固まりじゃないよ。きっと名のある偉い神様だよ。
トゲにロープを結ぶのじゃ!」
オクサレさまの正体を悟ったナキアは2人の少女に命令した。
ロープを受け取ったユーリとハディは、強くハンドルにくくりつける。
ハディとユーリはトゲにロープを結び終わると、ナキア湯婆婆の「引けやぁ〜!」
の声と共に、運動会の綱引きのうように大勢でロープが引っ張られた。
ロープの先から自転車が出たと思うと、続いて建材やガラスの破片、プラスチックの
粗大ゴミなどが一気にオクサレさまから噴きだした。
すさまじいゴミの山にナキアをはじめ油屋一同は唖然。
次の瞬間、ユーリの前に長い髪を頭頂部で一つに束ねたポニーテールの
堅い顔をした面が現れた。ポニーテールの面はユーリに緑色の団子を渡した。
一方オクサレさまから出たヘドロの中から砂金が見つかり、湯女や蛙男たちは大騒ぎ。
「あれは名のある河の神さま。イル=バーニだ!」
ナキア湯婆婆が叫んだ。油屋の経営者として神様の知識はいろいろとあるらしい。
河の神イルは「ははははは」と高らかに笑い、たくさんの砂金を残して
油屋の大戸から出て行った。
「ユーリ、大もうけだよ。よくやったねェ。あれは河の神イル=バーニ。古代ヒッタイトの赤い河の神を
していた高名な神様だよ。すごく頭がいいんだ。みんなもユーリを見習うんだよ!」
意地悪なナキア湯婆婆にはじめて褒められたユーリ。湯女や蛙男たちからも
羨望のまなざしを受け、自分のやったことにドキドキした。これで少し油屋に
溶け込むことができたような気がしたからだ。
河の神イル=バーニからもらった団子をそうっとポケットにしまった。
4.カオナシ
油屋で働く湯女たちの部屋。その日の仕事が終わりユーリは、ハディが持ってきた
大きなあんまんにかじりついていた。部屋の窓の外に見える景色は海だった。
その海を4両編成の古びた列車がゆっくりと地平線をめざして走っていた。
「海の上を電車が走ってる……」
ポソリと呟いたユーリに男まさりの言葉が返ってきた。
「当たり前だろう。電車が海の上を走らないでどこを走るんだよ」
ハディは大口をあけてあんまんにかじりついていた。
ユーリはあらためて自分が不思議の世界に迷い込んだと感じた。
「さあユーリ、もう疲れただろ。明日も早いよ。寝るぞ!」
ハディは押入れの布団と乱暴にユーリに投げた。
湯女たちの部屋の明かりがポツポツと消え始めた頃、蛙男のキックリは
最後の湯殿の見回りをしていた。
キックリは板張りの廊下の突き当たりに奇怪な人物を発見した。
薔薇マントに蜂蜜色のお面をつけた無表情の男がぼうっと立っていたのである。
「お客様……もう営業時間は終わりました」
蛙男になっても変わらない糸目のキックリは、丁寧に言った。
すると、薔薇マントの男はゆっくりとキックリの前に手を差し出した。
親指と人差し指には何かを摘んでいる。キラリと光る黄金色。
純金の粒をキックリに差し出していたのである。
「き、金だ!」
リュイとシャラという二人の妻を持つキックリは、金に引き寄せられた。
薔薇マントの男は、金塊を摘んだ手を右に左に動かしキックリをもてあそんでいた。
「金があれば……リュイとシャラが喜ぶぞ!」
欲に駆られたキックリは、差し出された金塊をもらおうと手を伸ばした瞬間、
薔薇マントの男はキックリの細い腕をおもむろにつかんだ。
蜂蜜色の仮面の下には大きな口があり、その中にキックリを取り込んだ。
取り込んだ……食べてしまったのである。
蛙男キックリを取り込んだ仮面の男は、彼の声を使って喋れるようになった。
「俺はカオナシ・ラムセスだ。客だぞ。風呂にも入るぞ。みんなを起こせ!」
大番頭のカッシュに金塊を差し出し、風呂に入れるように命令した。
次の朝、ユーリが目を覚ました。また夢を見ていた。どこかの国のお姫さま、
いや王妃さまになった夢だ。大きな宮殿で暮らしていたが、その暮らしは
質素なものだった。いつも出てくる王子さまがいたが、顔も名前もはっきりしない。
いつもの夢だと思い、ユーリは現実に戻った。今は不思議の世界。油屋にいるのだ。
ユーリは眠たい目をこすり、部屋を見回した。が、ハディをはじめ湯女たちが誰一人
いなかったのだ。寝坊をしたんだ! と思ったがそうではないらしい。
まだ仕事を始める時間ではない。とりあえず着替えて湯殿に行こうと思ったところへ
ハディが嬉しそうな顔をして戻ってきた。
「ユーリ。気前のいい客が来てるんだ。ほら、見てこの金塊」
ハディはユーリの黒い瞳の前に格調高い光りを放つ1.5pほどの粒を見せた。
ハディいわく、気前のいい客とやらは金塊と真っ赤な薔薇の花を
ばらまいているのだという。
ユーリは薔薇にも金にも興味はなかった。そんなことより、豚になった家族を
人間の姿に戻して、元の世界に還りたかったのである。
油屋は金塊をばらまく客のおかげで大騒ぎ。この騒ぎでは豚になった家族にも会いにいけないと、
窓の外の海を見て一人落ち込んでいた。
そんなユーリの視界を無数を紙切れに襲われる一匹の白い竜の姿をよぎった。
竜を襲っているのは人の形をした無数の紙切れだった。紙はナイフのように
竜の体を切り刻み、真っ白な竜の体の所々に血か滲み出ていた。
ユーリは直感で、白い竜がカイだと悟った。
「カイーッ! こっち、こっちだよー!」
どうしてこの竜がカイだと思ったのかはわからないが、ボロボロの姿の竜を見て
助けないわけにはいかなかった。
ユーリの声が届いたのか? 白竜はユーリの部屋に飛び込んできた。一緒に紙切れも
入ってきたが、ユーリが窓ガラスを閉めて凶器の紙切れの進入を防いだ。
「カイ、カイでしょ。しっかりして!」
白竜がカイだと信じるユーリは声をかけるが、興奮しているのかそれとも
何かの暗示にかかっているのか、ユーリの声を聞こうとしない。竜の目は狂気に満ちていた。
カイと思われる竜はユーリの脇をすりぬけ、窓ガラスを割って空に向かって
飛び出した。ナキア湯婆婆のいる最上階の居間に向かって昇っていったようであった。
追いかけなくっちゃ! そう思ったユーリはエレベーターを使って最上階へ
行こうとした。エレベーター乗り場の前にはちょうどカオナシ・ラムセスがおり、
彼の出す金塊と薔薇につられて、蛙男や湯女たちが周りにたかっていた。
「ユーリ、お前のような新入りの小娘は邪魔だ。引っ込んでいろ!」
蛙男カッシュは迷惑そうにユーリに言った。
気前のよい客というのは、湯札をくれた薔薇マントの男だったのだ。
ユーリは初めて知った。しかし、今まで見たときよりも確実に巨大化している。
蜂蜜色の仮面の大きさは一緒だが、マントの薔薇模様がだいぶ太って見えた。
「ア……ア……」
カオナシ・ラムセスはユーリの前に両手いっぱいの金塊と薔薇を差し出した。
受け取るように手を上下してユーリに訴えた。
「いらない。ほしくないよ」
ユーリは申し訳なさそうに首を左右に振るとカオナシ・ラムセスを後に
かけだしていった。
意外な反応にカオナシ・ラムセスは訳がわからなくなった。ラムセスは
ユーリのことが気に入っていたのだ。ユーリに喜んでもらいたくて、蛙男キックリを
飲み込んで声を得て、金と薔薇をたくさん出したのだ。
「申し訳ありません。お客様。今の娘は何分新入りでして……失礼致しました」
大番頭カッシュは営業スマイルをカオナシに向けた。
「お前……笑ったな。なぜ笑う!」
カッシュの営業スマイルを、馬鹿にした笑いだと思ったカオナシ・ラムセスは
カッシュの襟首をつかみ、続いて側にいた湯女をそのまま大きな口の中へと放り込んだ。
金と薔薇をばらまく気前のよい客が、一場面で招かざる客へと豹変した。
蛙男や湯女たちは大慌てで逃げ出した。