天と天河の神隠し
(天河版千と千尋の神隠し)


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1.神隠し


 夏休み。10歳の鈴木夕梨は家族と一緒にピクニックに行った。
父と母、姉の鞠枝と妹の詠美。家族揃って父の運転する車に乗り、
山のキャンプ場へ向かった。
 4WDの車で平らでない山道を進んでいった。そろそろキャンプ場へ着く距離を
鈴木家の車は走行したが、いくら進んでもキャンプ場らしき目的地に辿り着かない。
30分ほど前キャンプ場への案内の看板があったのを最後に、どことも分からぬ場所に
迷い込んでしまったのだ。どうやら夕梨の父は途中で道を間違えてしまったようだ。
引き返せばよいものを「地球は丸いんだ!」と言って、強引にもそのまま
山林の奥深くまで進んでしまった。
「ねえ、引き返そうよ。お父さん!」
 どんどん森の奥深く車をすすめる父に夕梨は不安を覚えた。
窓の外の景色は、猛スピードで夕梨の視界を駆け抜けた。その視界の中に一つに
夕梨は車の窓からコケの生えた古めかしい石造を目にした。スピードが出ていたので
はっきりは見えなかったが人の形をしていた。衣服は見につけていないように見えた。
「な、なんか今へんなお地蔵さんが……」
 夕梨はポソっ呟いたが、家族の誰も返事を返さなかった。
 夕梨の不安をよそにグングンアクセルを踏む父。しばらくすると
数十メートル先に赤いトンネルが見えてきた。しかしそのトンネルの前に人がいたのだ! 
「危ない!」
 母が大きな声を出すと同時に父は強くブレーキを踏んだ。車は急停止した。
人だと思った影は石造だった。何年も放置されたままであろうと思われるコケの生えた
人型の石造だったのだ。
「何これ? 石造?」
 鈴木家一同は車の外に出て石造を見た。
 石造は人型はしているが、どうも現代人をかたどったものではなさそうだった。
上半身は裸、ウエストからは腰布を巻き、靴は履いていないで裸足だった。
首にはジャラジャラといくつものアクセサリーが装飾してあった。
夕梨は学校の図書館で見た四大文明の本に出てくる古代エジプト人に似てると思った。
神殿の壁画の写真にこのような格好をした古代人が写っていたのだ。
古代エジプト人みたいな石造に表情はなかった。顔は風化してしまったのか? 
ぼんやりと目と鼻と口の位置に窪みがあっただけだった。
 夕梨は何ともいえぬ奇妙な感覚にとらわれた。もちろんこんな石造は初めて見る。
緑色のコケの生えた夕梨の生まれるずっと前に作られたこんな石造を見たことなんてない。
それにピクニックに来たこの山には始めてきたのだ。
見覚えなんてあるわけないと頭では分かっていたが、全身の感覚がそれを否定していた。
 奇妙な石造の後ろには赤いトンネルが続いていた。トンネルの向こうに明かりは
見えず、長い長い暗闇だった。
 夕梨の父と母はトンネルに入ってみようと言った。鞠絵も詠美も賛成したが、
夕梨だけは気味悪いから嫌だと言った。
「それじゃあ置いていくよ」
 さらりと姉に言われた夕梨は、古代人の石造と一緒に待っているのも怖いので
一緒にトンネルへ入ってゆくことにした。
 トンネルの中は真っ暗で長く長く続いていた。1、2分歩くと、前方に明かりが見えてきた。
出口がないと思ったトンネルにもちゃんと出口はあるのだ。
「もうすぐ外に出られるよ!」
 妹の詠美は明かりに向かって走っていった。
 トンネルを抜けると、夕梨たちの目の前には草原が広がっていた。
電柱も電線もない緑の草原。心地よい風がなびき、その風は夕梨の頬をくすぐった。
草木も気持ちよさそうに同じ方向に揺れている。その草原の中に、トンネルの前に
あった石造と同じものが何体か散らばっていたのだ。
「わあ! 広い。きれい!」
 澄んだ空気と若草の匂いにみんな大きく息をした。
 夕梨も確かに気持ちのよい場所だと思った。しかし古代人の石造を見てから奇妙な感覚が
抜けない。心地よい空気に感動する家族と裏腹に車に帰りたくてたまらなかった。
「あっ! 向こうに建物があるよ!」
 夕梨たちの立っている場所から300メートルほど離れた所に詠美の言うように建物が見えた。
赤や緑やオレンジの派手な建物であることが、今立っている場所からも確認できた。
 詠美と鞠絵は建物に向かって走っていった。父と母もそれに続いた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ行くの?」
 夕梨は叫んだが姉妹も両親も、次女の言葉に振り返らないで進んでいった。
車に戻りたくて仕方なかったが、先ほど来たトンネルはやはり真っ暗で、しかも風がゴウッと
不気味な音をたてて吸い込まれていた。一人では怖くて戻れない。
 夕梨はやはり家族の後に着いて行くしかなかった。



「わあ! おいしそうなにおい!」
 詠美が鼻で大きく息を吸い、体でにおいを味わった。
 原色を使ったカラフルな建物はどうやら飲食店の建物だった。
 詠美の言うとおり、確かに何かを焼いたようなおいしそうなにおいがした。
道に迷ってしまいお昼もまだ食べていなかった鈴木家のお腹を鳴らすには十分な
においだった。
「ここでお昼にしてもいいわね。お腹空いちゃったし……」
 母はキャンプ場ではなく、とりあえずこの飲食店街でお昼を食べても良いと思った。
「みんなーっ! おいしそうなにおいはここからだよー。ねえ、来て!」
 先に道を進んでいた長女の鞠枝が、路地を少し入ったところで手を振っていた。
みんな早足で行くと、そこには屋台風カウンターのあるお店があった。
カウンターには大皿料理が山盛りになっていくつも置いてあった。できたてのおいしそうな
湯気があがっていたが、お店には客はおろか店員も誰もいなかった。
「おいしい、すっごくおいしいよ!」
「本当だわ。おいしい」
 お店の人がいないのに、両親と姉と妹はカウンターに座り、モグモグと育ち盛りの
中学生男の子のように食べ始めた。
「ねえ、お店の人がいないのに勝手に食べちゃダメだよっ!」
 夕梨は先ほどからの奇妙な感覚がまだ消えない。トンネルを抜けてから、
自分の家族以外に誰にも会わないし、お店の雰囲気も普通と違う。両親と姉妹たちを
止めたが、食べるのに必死で夕梨の注意など気にもしていなかった。
「お店の人にはあとで勘定を払えばいいわよ。ほら、夕梨もたべなさい」
「夕ちゃんも一緒に食べようよ!」
 母と妹に勧められたが、夕梨は何も言わずに首を横に振った。家族はガツガツと
ものすごい勢いで食べ続けている。異常なほどだった。その姿はエサがっつく豚のようにも見えた。
 夕梨は仕方なく先ほど来た大通りまで引き返した。人影はやはり全く見えない。
さっき来たトンネルのほうと別の方向を向くと大きな建物が見えた。
夕梨は建物が見える方向に歩みを進めた。建物の前には川があり、そこには
神社の鳥居と同じ色をした朱色の和風な橋がかかっていた。橋の向こうに
あるのは、橋と同じ朱色をした瓦屋根の数階建ての建物だった。
朱色の建物には「油屋」と行書体で書いた大きな看板がかかっていた。
屋根には煙突が付いており、黒い煙がモクモクと天に向かってなびいていた。
「なんだろう……ここ……」
 夕梨は橋に一歩足を踏み出し、橋を歩いていった。
 すると背後から視線を感じた。振り向くとそこには10歳の夕梨より3つ4つ年上の
綺麗な男の子が立っていた。亜麻色の髪にブルーの瞳。目鼻立ちがはっきりした美しい少年だった。
外国人風の顔をしていたのに、和服を着ていた。アンバランスのように思えたが、
整った顔がそれをカバーしていた。しかし、顔立ちの整った少年は険しい表情をしており、
夕梨を見つけるや否や怒鳴りはじめた。
「ここに来てはいけない! 早く帰るんだ!」
「えっ……」
 急に怒鳴られて夕梨はビックリしたが、ふと西の空を見ると地平線が赤く染まっているのに
気づいた。日が暮れ始めていたのである。
 橋の向こうの朱色の建物の玄関にポッと明かりがついた。
「私が時間をかせぐ。早く元に戻るんだ。河の向こうに走れ!」
 亜麻色の髪をした美しい少年は夕梨の肩をドンと強く押した。
夕梨は何がなんだか分からなかったが、とにかく、さっき来た飲食店街の方へ戻ろうと思った。
「なによあいつ、偉そうに命令して……」
 顔は良かったが、追い払われるような態度を取られたので夕梨は気に入らなかった。
しかしそんなことを気にしている場合ではない。日はいつのまにか暮れ、
辺りはどんどん黒い色を増してきていた。
「パパ、ママ、お姉ちゃん、詠美!」
 屋台風カウンターのお店に戻った夕梨は愕然とした。
夕梨の家族はまだ食べ続けていたのだ。ただ食べているのではない。両親も姉妹たちも
豚の姿に変わっていたのだ。
「ひっ!」
 鈴木家の次女は短い悲鳴を上げた。恐怖に駆られ夕梨は豚になった家族を置いて、
さっききたトンネルのある草原へ向かって走った。何がなんだか分からず、やみくもに走り続けた。
 先ほど草原であったはずの場所についた。しかしそこは草原ではなく大きな川に
変わっていた。ちょうどオレンジ色のネオンをたくさんつけたフェリーが川岸に到着しており、
そこから黒い人影がゆらゆらと何人も降りてきた。目だけが黄色く光り
10歳の夕梨の瞳にはお化けのようにしか映らなかった。他にも呪文の書かれた
お面をかぶった異形の者が次々とフェリーから降りてくる。
 夕梨は川岸の茂みに隠れうずくまった。
「これは夢だ。夢だ。消えろ! 消えろ! 早く消えろ!」
 激しく叫ぶ夕梨。しかし消えているのは自分自身であった。夕梨の体全体が
透明人間のように透けかかっていたのだ。
「いやああああ」
 夕梨はもう何がなんだかわからなくて泣き出した。そんな夕梨の肩にやさしく手を
置いた者がいた。先ほどの亜麻色の髪をした美しい少年である。
「怖がるな。わたしはそなたの味方だ」
 少年はやさしく語りかけた。この突然の異質な状況に何を信じたらよいか分からない夕梨は
少年を払いのけようとした。が、彼女の手は少年の体をすり抜けた。
「この世界のものを食べないとそなたは消えてしまう。さあ、この実を食べるんだ」
 少年は人差し指と親指で赤い丸い小さな実をつまんでいた。夕梨の口を開け
ポンと赤い実を放りこむとそれを飲み込ませた。体は実体を成し、少年は強く夕梨の手を握った。
「さっきは怒鳴って悪かった。もう大丈夫だよ」
 少年の声はとても優しかった。夕梨は一瞬心が落ち着く。
「おいで、ここにいては危ない。一度油屋に戻るよ……」
 夕梨は少年に手を引かれて先ほどの朱色の建物に向かって走らされた。
 油屋の前の橋のたもとまで来た。フェリーから降りてきた黒い影や異形の者が
神社の鳥居と同じ色をした橋を渡って油屋に入ってゆく。
「いいかい、夕梨。これからあの橋を渡る。橋を渡っている間は息をしちゃだめだ。
息をしたら人間がいると気づかれてしまう。いいね」
 少年はなぜか夕梨の名前を知っていた。疑問に思ったが、とりあえず自分は
橋を渡らなければならない。夕梨は橋に一歩踏み出す前に息を大きく吸った。
 2人は緊張して橋を渡った。
 ちょうど橋の中央部に、蜂蜜色のお面をつけたような物体が立っていた。
左右の目の色が違い、オッドアイであった。表情がなく蜂蜜色の面から
それは土偶のようにも見えた。しかしオッドアイの土偶は黒地に薔薇模様の布をまとい、
奇妙な格好だった。蜂蜜色の面をつけた奇妙な者の脇を通ったとき、
その物体は夕梨たちに興味があったのか、ぐっと顔を寄せてきた。恐ろしくて夕梨は
ギュット少年の腕をつかむ。息をしてはいけない。あともう少しで橋を渡り終わるんだ……。
 そう思ったとき
「カイ様ー、お帰りなさいませー!」
 橋の向こうから青い羽織を着た蛙が少年と夕梨の前に飛び出した。
夕梨は驚いて「ヒッ!」と声を出してしまい、息をしてしまった。
「キックリ!」
 少年は蛙男の名前を叫んだかと思うと、その蛙に手をかざし呪文をかけて気絶させてしまった。
夕梨は少年に手を引かれて猛スピードで逃げた。夕梨が息をしたことによって、
この世界に人間が入り込んでしまったことが分かってしまったのである。
「ごめんなさい。わたし息しちゃった……」
 夕梨と少年は人気のないあじさいの花の咲き乱れる庭へ身を隠した。
「いいんんだ、夕梨はよくがんばったよ」
 少年はやさしく声をかける。
「どうしてわたしの名前知ってるの……」
 先ほどから疑問だったことを今ここで問うた。
「ずっと前からそなたの名前は知っている。わたしの名前はカイだ」
「カイ……」
 夕梨は少年の美しいブルーの瞳をじっと見つめていた。
「夕梨、騒ぎが静まったらここのボイラー室に行くんだ。そこにタロスいう名前の
釜爺がいる。彼に『仕事をください』って頼むんだ。断られても粘るんだよ。
ここでは働かない者はナキア湯婆婆の魔法で動物に変えられてしまう……」
 カイと名乗る亜麻色の髪をした少年は夕梨の黒い瞳をみつめて優しく言う。
「ナキア湯婆婆……動物……」
 突然ああしろこうしろと命令された夕梨の大脳は混乱気味だった。湯婆婆、タロスって誰?
魔法で動物に変えられてしまうって、この世界は……。
「わたしは夕梨の味方だよ。心配しなくていい。わたしが時間を稼ぐから
その間にボイラー室に行くんだよ。この世界で生きのびるためにはそうするしか
ないんだ。ご両親やお姉さん、妹さんを助けるためにもね……」
 カイは夕梨の手を握り締めたままゆっくりと立った。
「がんばるんだよ」
 青い瞳で夕梨を見つめて静かに手を解いた。
 カイは油屋に戻っていった。
「カイさま! ナキア湯婆婆さまがお呼びです」
「判っている」
 油屋の中に戻ったカイは『さま』をつけられて呼ばれていた。
 この世界がどういう世界なのかはわからない。ただ、ここでは人間は特殊な存在。
両親と姉妹たちは豚になってしまった。頼れるものは……カイと名乗る美しい少年
しかいない。味方だという彼のことを信じてよいか分からないが、今は彼の言うとおり、
ボイラー室に行ってタロスという釜爺さんに会うしかないようである。

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