赤髪の白雪姫2次小説
夢に見た光景
第二期のアニメが終わったあたり
(タンバルンから帰ってきたくらい)の設定でお読みください。
〜第一部〜
1. 辞令
バタン!
ガラクが大きな音を立てて薬室に入ってきた。
薬室にいた白雪、リュウ、八房はお互いに顔を見合わせる。
「はぁ〜」
大きな溜息をついてガラクは椅子に座る。
目の前の机には整理しきれていない書類が山積みであった。
いつもの光景である。今にも崩れ落ちそうな書類の前にガラクは頬杖を突く。
眉間に皺が寄り機嫌が悪そうだ。不機嫌極まりないオーラを放っている。
30分ほど前、ガラクは王宮の偉い人に呼ばれて薬室を出て行った。
戻ってきてこの態度ということは、呼び出されて何か嫌なことを言われたのだろうか?
「薬室長、機嫌悪いですね。どうしたんでしょう?」
リュウが分厚い本で顔を隠しながら白雪に小さな声でたずねる。
「さあ? 何かあったんですかね?」
白雪はすぐそばにいた八房に声をかけた。
「荒れてますね……。お偉い方々に何か無理難題を言われたんですかね?」
八房にも機嫌の悪い原因はわからないようだ。いつもガラクと一緒にいる八房にしては珍しい。
「白雪さん、何があったか聞いていませんか?」
「は? 私!? 何言ってるんですか、八房さん!」
白雪は驚きの余り一オクターブ高い声を上げる。
「こういうときは同じ女性のほうが聞きやすいと思うんです。聞いてみませんか?」
「僕もそう思う……」
八房とリュウに見つめられる。
白雪は少々考える。
八房とリュウは懇願するような瞳で白雪を見つめ続ける。二人の眼差しに負けて、白雪は重い腰を上げる。
機嫌の悪そうなガラクの元へ行った。
「薬室長、随分お疲れみたいですね。何かお茶でも入れましょうか?」
白雪は機嫌を直してほしいという思いから、とびきりの笑顔でガラクに話しかけた。
「あ、ああ…白雪君っ! 別に疲れているわけじゃないわ。
あっ…で、でもお茶は入れてもらおうかしら。お願いできる?」
「は、はぁ……」
ガラクは何か慌てるような感じであった。笑顔ではあったが、その笑顔は引きつっていた。
いつものガラクとは何かが違うような気がする……。
そう感じたが、この時、深くは考えなかった。お茶の準備のため、隣の部屋へ入って行った。
お茶の準備をしながら白雪も小さくため息をついた。
白雪にも少々気の沈むことがあるのだ。
いつものことと言えばそれまでだが、最近ゼンに会えていなかった。
王宮内で偶然すれ違うこともなかった。会って話ができなくとも、姿を見られるだけ嬉しかった。
すれ違いざまに手を振るだけで安心できるのだ。
今まで会う約束はしなくとも、王宮内にいれば数日に1回は姿を見ることはできた。
それさえもなく、寂しいと感じた。
それに最後にあった時、またお見合い話をもちかけられているとゼン本人が言っていた。
どこかの伯爵令嬢とのお見合いらしい。
上手く断る方向に持っていくと言っていたが、その件はどうなったのであろう?
会えない寂しさもあるが、お見合いの件も白雪の心を不安にさせる要因の一つであった。
疲れているガラクのことを想い、少し甘めの薬膳茶を用意した。
お茶を持っていくと、ガラクは優しい笑顔だった。
いれたてのお茶を机の上に置くと、穏やかな声で「ありがとう」と言われた。
笑顔のガラクを見ると視線が合った。じっと白雪を見つめている。
「どうかしましたか? 薬室長?」
あまりじっと見つめられたことはないので、なんだか変な感じがした。
「い、いいえ。何でもないわ。白雪君。お茶、おいしいわ。ありがとう」
ガラクの様子がいつもと違う……。
忙しくて不機嫌というわけでもなさそうだ。何か悩みでもあるのだろうか?
少しおかしいと思ったが、この時白雪はそれ以上深く考えなかった。
***
数日後、薬室で薬草を擦っていると、カチャリと扉の開いた音がした。
白雪は入口の方を振り向いた。扉は閉まっている。
誰か来たような気がしたが、そういうわけではなさそうだ。
同じ部屋にいるリュウも扉を見ている。扉の方から音がしたことは間違いない。
ゼンに会えない日々は続いていた。
そういえば昨日からオビの姿も見ていない。
何か特別に用事がない限り、いつも薬室にいるはずなのにどうしたのだろう?
カチャリ。
また扉の方から音がした。リュウと同時に振り向く。やはり気のせいではない。
扉の方から何か音がする。風にしては不自然だった。今日は扉を揺らすほどの風は強くないはずだ。
誰かが、何かが扉の外にいる。白雪は薬草を擦る手を止めて扉の方へ向かった。リュウも後に続く。
扉の前まで行くと、やはり外に人の気配がした。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開けた。
「どうしたんですか!? 薬室長!」
白雪は驚きの声を上げた。
扉の外には真っ青な顔をしたガラクが立っていたのである。疲れているからとか、
具合が悪いとかそういう感じの青い顔ではない。扉の外で青い顔で呆然と立ち尽くしていたのである。
「白雪君……」
ガラクは白雪の顔を見て暗い声で名前を呼んだ。肩を落とし、髪も乱れている。ただ事ではなさそうだ。
「薬室長、顔が真っ青ですよ。どうしたんですか? とりあえず中に入って下さい」
白雪はガラクの手を引っ張り部屋の中へ入れた。白雪の声を聞きつけた八房とヒガタも集まってきた。
「ごめんなさい……」
ガラクは白雪の顔を見て呟いた。
「え?」
「あなたを……守ってあげられなくてごめんなさい……」
「どうしたんですか……薬室長?」
ガラクは呆然とした状態でまっすぐに白雪を見つめる。
小刻みに肩が震え、その振動が手にも伝わっていた。手には一枚の紙を持っていた。
「これは何です? 薬室長?」
八房がガラクの持っている紙を取り上げた。
「な、なんですか! これはっ!」
いつも穏やかな八房が大きな声を上げる。リュウが紙を覗き込む。
目を見開き、口をパクパクさせていた。リュウは声にならない驚きを発していた。
白雪もリュウの後ろから八房の持っている紙を覗き込んだ。
一番上に『辞令』と太い文字で書いてあった。その下の文章を目で追う。
『宮廷薬剤師 白雪 無期限休暇を命ずる』
「な、何これ……」
予想もしなかった内容に白雪は目を見開く。
「な、なんで白雪さんがっ!」
一緒に見ていた同期のヒガタも叫ぶ。
「これはどういうことですか? 薬室長!
……薬室長、しっかりしてください。事情を話して下さい!」
八房がガラクの肩を叩く。ガラクはハッとし我に返り白雪を見つめる。
「そうね。ぼうっとして悪かったわ。みんなちょっとこちらへ……事情を話すわ」
ガラクは八房から辞令の書いた紙を取り上げる。
表情は硬かった。これはきっと……普通のことではない。
白雪はゴクリと唾を飲み込んだ。
ガラクの机のまわりに椅子を並べる。それぞれが腰かけた。
「薬室長、私の無期限休暇ってどういうことなんですか?」
ガラクは白雪をじっと見つめる。表情は硬く笑顔はまったくない。
「白雪君、最近ゼン殿下とは会ってる?」
白雪の質問には答えず逆に質問されてしまった。
ここでどうしてゼンの話が出てくるのであろう。
「いいえ、会ってません。最近ゼンは忙しいのか王宮ですれ違うこともなくて……」
今までは王宮内にいれば、数日に一度はゼンと顔を合わせていた。
最近会うことがなかった。気のせいだと思っていたが、そうではないのかもしれない。
「オビ君は?」
「オビも昨日から姿が見えなくて……どこかでみかけませんでした?」
白雪はその場にいるみんなにたずねた。全員首を横に振る。
「そう……やっぱり仕組まれているのね」
ガラクが重いため息をつく。
「仕組まれて? どういうことなんですか?」
白雪は声を大きくして聞く。
ガラクは沈黙する。何か考えているようだった。表情は真剣である。
「隠していても……耳に入ることだと思うから言うわね」
「はい……」
ガラクが机の上に肘をついて両手を組む。組んだ両手を額に当て大きく溜息をつく。
――嫌な予感がした。
これからガラクから発せられる言葉はものすごくショックを受ける言葉なのかもしれない。
「ゼン殿下が婚約した」
白雪の心臓は凍りつく。
息が詰まりそうな感覚に胸が押しつぶされそうになった。
「ええっ! なんですかそれっ! ゼン殿下には白雪さんがいるのにっ!」
ヒガタが立ち上がり大きな声を上げる。
「そうですよ! ゼン殿下や白雪さんの気持ち、全然考えてないじゃないですか!」
普段大人しい八房も立ち上がった。
「まあ、二人とも落ち着いて……白雪君。大丈夫?」
ガラクが心配そうにたずねる。
「は、はい……大丈夫かどうかは……わかりませんが、聞こえてます……」
白雪は胸に手を置く、動揺で心臓がちぐはくに鳴っているようだった。
「あの……ゼン殿下が婚約すると、どうして白雪さんに無期限休暇の辞令が出るんですか?」
リュウが静かに問う。
「そうだよっ! なんで白雪さんが無期限休暇なんだよっ! 薬室には白雪さんがいないと困るじゃないか!」
「そうです! そうです!」
リュウの問いにヒガタと八房が興奮状態であった。
「そこなのよ。私も突然、白雪君の辞令が出てビックリして……。
白雪君はこの薬室に必要な人だから、こんな辞令は困るって反対したの。でも婚約相手の令嬢が……」
ガラクが言葉を濁す。
「あの……ゼンから数週間前に伯爵令嬢とお見合いの話があるって聞きました。
お相手ってその伯爵令嬢ですか?」
白雪が聞くとガラクは無言で頷く。
「そうみたいね。そのお見合い相手の伯爵令嬢がゼン殿下に一目ぼれをしてしまったらしいの。
ゼン殿下は断ったらしいけど、その令嬢が白雪君の存在も知ってね……。
王家もお相手の伯爵家もこのお見合いには乗りきらしくて……」
ガラクは言いにくそうに言葉を濁す。
「私が……邪魔になったんですね」
白雪の言葉にみんな顔を上げる。視線が集中する。
「最初は解雇の辞令だったの。でも試験をして採用した人を、
明確な理由なく解雇なんておかしいって言ったら、『無期限休暇』になった。
解雇じゃないんだからいいだろうって……」
ガラクは深く溜息をつく。
「そんなのおかしいじゃないですか! ちょっとみんなで抗議しに行きましょうよ!
白雪さんを解雇なんて……無期限休暇なんておかしいって!」
ヒガタが声を大きくして立ち上がる。八房とリュウも「そうだ!」と頷いていた。
「辞令に従わなかったり、騒ぎを大きくしたら薬室全員解雇だって……。
私も頑張ってみたんだけど、もうどうにも……」
ガラクが俯いて声を殺す。
数秒の沈黙の後、顔を上げたときには目が赤かった。
「白雪君、私の力が及ばなくてこんなことになってしまってごめんなさい……。本当にごめんなさい」
ガラクが立ち上がり深く頭を下げる。
「や、やめてください、薬室長。頭を上げてください。
薬室長のせいじゃないです。あの……この紙貸してもらえますか?
ゼンに……ゼンに会いに行ってきます!」
白雪はガラクから辞令の書いた紙を奪う。
薬室を飛び出し、王宮の廊下を全速力でかけてゆく。
背中にみんなの呼ぶ声が聞こえたが振り返らなかった。
2. 最後の一夜(R18)
薬室を飛び出した白雪は王宮の廊下を向かって走っていた。
――ゼンが婚約した。
私はただの宮廷の薬剤師だ。何の身分も何の後ろ盾もない。
ゼンは王子で、いつか妃を迎えなければいけない。
ずっとゼンと一緒にいられるわけではない……そう頭ではわかっていたつもりなのに、
それが現実になってみると心がついていけなかった。
無期限休暇の辞令なんて受けてたら、ゼンと永遠に会えなくなってしまう。
このまま言葉も交わさず、一度も会うことなく別れることは嫌だった。
ゼンの居室のある建物に辿り着く。建物の入口には顔見知りの衛兵が二人立っていた。
「お通しできません、白雪さん」
顔見知りの衛兵たちはお互い持っている槍を白雪の前でクロスする。
「どうして? いつも通してもらってるわ」
白雪は衛兵たちを見上げる。
「……どうしてもです。お通しするわけにはいかないのです」
「じゃあゼンをここに呼んで欲しいの。お願い! 一目だけでもゼンに会いたいの。」
白雪は遮る槍に手を掛け懇願する。
「申し訳ありません、白雪さん。お帰り下さい……」
衛兵たちの表情が辛そうだった。いつも笑顔でここを通してくれていたのに……。
白雪は槍から手を離した。
見えない……自分には手に負えない大きな力が働いているのだ。
もう会うことすら許されないのかもしれない。
辞令の書いた紙をギュッと握る。
白雪は来た道を引き返していった。
その夜は眠れなかった。
部屋に帰り、ベッドに入って目を閉じても睡魔はやってこなかった。
昨日の夜、このベッドに入った時にはまさか一日後にこんな状況になるなんて想像もしなかった。
これからどうしたらいいのだろう……。
眠りにつけず寝返りを打っていると、ベッドのすぐそばの窓がコツンと鳴ったような気がした。
白雪は枕から頭を起こし窓の方を見た。今日は風で窓ガラスが鳴るなんてことはないはずだ。
おかしいと思いながら、カーテンの閉まった窓をじっと見つめる。
数秒後、またコツンと音がした。
やはり気のせいではない。
白雪はベッドから起き上がりカーテンをそっと開けた。窓の外にはオビの姿があった。
「オビっ!」
窓を開け思わず叫んでしまった。オビは慌てて白雪の口を塞ぐ。
「しっ! お嬢さん!」
「ご、ごめん……オビ、とにかく入って!」
オビを窓から部屋に入れる。
「お嬢さん、ごめん。お嬢さんの護衛なのに昨日から側にいられなくて……」
オビが開口一番に謝る。
「ううん、そんなことない……」
「まったく……あんな監禁されると思わなかったよ。
ここ数日、主も木々嬢もミツヒデの旦那も一歩も部屋から出られなかったんだ。
お嬢さんに知らせるのが遅くなってごめん。……お嬢さん、どこまで事情知ってる?」
オビに真剣な顔で問われる。やはり昼間、ガラクが言っていたことは本当のことなのだろう。
「ゼンが婚約して……私に無期限休暇の辞令が出た……。ゼンの婚約って本当なの?」
オビは一瞬目を瞑り、申し訳なさそうに頷く。
「お嬢さんにはショックかもしれないけど本当なんだ。相手の令嬢が主に一目ぼれしてしまって、
絶対に主と結婚するって言いだしたんだ。王家もその話に乗り気で話をまとめようとしている。
主にもちろんそんな気はない。お嬢さんを妃に迎えたいと言ったら、
猛反発にあって、主も俺も木々嬢もミツヒデの旦那も部屋に監禁されてしまったんだ」
ガラクから聞いた通りだったので白雪は静かに頷いて続きの話を聞いた。
「見張りの衛兵に酒を盛ってなんとか抜け出してきた。
お嬢さん、主が会いたいと言っている。俺たちがなんとか手引きするから主と会うんだ!」
オビに肩を強く叩かれる。まっすぐこちらを見つめる瞳が真剣だった。
「でも、昼間、ゼンに会いに行ったら建物にも入れてもらえなくて……」
昼間ゼンに会いに行こうとしたことを伝える。
衛兵に阻まれゼンに会うことはできなかった。
「真正面から会い行っても会えるわけがない。だから考えたんだ。
明日の夜……この紙に書いてあることを実行して欲しい」
オビから小さく折りたたんだ紙を渡される。
広げると明日の夜の予定と、もう一枚短い手紙があった。差出人の名前はないがゼンの筆跡だった。
「ゼンの字だ! わかった。明日の夜だね……」
白雪はオビを見つめて真剣な表情で頷く。
「俺もなんとか見張りの衛兵をまいてお嬢さんに付き添えるようにするよ。それじゃあ、また明日!」
オビが白雪に向かって手を振る。窓枠に足をかけ注意深く左右を見回す。
誰もいないことを確認して静かに窓から出てゆく。
白雪は窓から顔をそっと出した。オビが足音を立てずに走ってゆく。
オビの姿はすぐに見えなくなり、夜の闇に溶け込んでいった。
翌朝。
無期限休暇の辞令は出たが、いつもどおり薬室に出勤した。
制服に着替え、薬学書を持って王宮の廊下を歩いていると、
白雪を見てひそひそと話す人の声が聞こえてきた。
「やっぱり宮廷の薬剤師には無理よね」「こうなると思ってた」など聞えよがしの声が耳に入る。
――こういう噂はすぐに広まるのだ。
白雪は口を一文字に結ぶ。胸に抱いている薬学書に力を入れた。
周囲の憐れむような視線は辛かったが、背筋を伸ばして薬室まで向かった。
薬室に入ると、みんなの視線が一斉に集まった。
廊下でこそこそ噂する人々から向けられる視線とは違う。
本当に白雪のことを思ってくれる、心配してくれる人たちからの視線だ。
「白雪さん、大丈夫? 具合……悪くない?」
「顔色悪いよ。昨日は眠れた?」
昨日は殆ど眠れなかったせいか、顔色も悪く映っているのだろう。
みんなの心配に心が少し落ち着いた。
無期限休暇を受け入れなくていいとガラクは言ってくれたが、
万が一のために次の就職先を紹介してくれると言った。
その気持ちは嬉しかったので「ありがとうございます」と礼を言った。
夕方になり、薬室での仕事が終わって部屋に帰ってきた。
昨夜、オビから渡された紙を見た。
今夜、部屋から抜け出して指定の場所まで来て欲しいと書いてあった。
ゼン達のいる居室だけでなく、白雪の周りも見張られていると紙に書いてあった。
正面からそのまま出ては止められるので、昨晩オビが来た窓か裏口から出てくるようにとの指示があった。
赤い髪はまとめ、着替えのしやすい目立たない恰好で来るようにとも書いてあった。
もう一枚のゼンからの手紙には、婚約は自分の意志ではなく、
勝手に話を進められたものだと書いてあった。必ず婚約は解消し、
ずっと王宮で一緒にいられるようにすると締めくくってあった。
昨晩、この手紙を渡されてから、何度も読み返した。
不安はあるが、ゼンの字を見るだけで心が落ち着いた。
約束の時間が近くなり、部屋を出る準備をした。
目立つ赤い髪は同じ色の赤の髪紐でまとめて結い上げた。
持っている服の中で一番暗い色の服を身につけ、頭にフードを被った。
裏口と窓のどちらから出ようか迷ったが、昨日オビが来た窓から出ることにした。
部屋には灯りをつけておいて、本を読んでいるような人影も作っておいた。
見張りをしている衛兵たちが騙されてくれることを祈る。
待ち合わせの場所に行くとオビが既に待っていた。ゼンの居室のある隣の建物に入ってゆく。
「お嬢さん、この服に着替えて」
渡されたのはメイドの服だった。ゼン達の身の回りの世話をするメイドたちが身につけている服だ。
黒髪のカツラも用意されており給仕用の白いキャップもあった。
目立つ赤い髪を隠せば自分だと分かる確率は格段に下がる。
黒髪のカツラをつけてメイド姿になった白雪は、
オビの手引きでゼンの居室のある建物の中へ入ることに成功した。
今からゼンが部屋にお茶を頼むという。
そのお茶をメイドの振りをしてゼンの部屋へ持っていくという手段らしい。
「お茶なら私が持っていきますよ」
オビが廊下でお茶を持って来たメイドに声をかける。
何も疑わないメイドは「お願いします」と言い、オビにお茶のカートを渡した。
メイドの姿が見えなくなってから、オビの合図でカートを受け取った。
このままゼンの部屋まで行けばいいのだ。赤い髪はしっかりとカツラと給仕用のキャップで隠れている。
じっくりと見られなければ自分と分からないはずだ。なるだけ顔を見られないよう、
また不自然にならないよう少しだけ俯き加減で廊下を進んだ。
ゼンの部屋の前に辿り着くと、扉の前に槍を持った二人の衛兵が立っていた。
顔見知りの衛兵ではなかった。
「ゼン殿下にお茶をお持ちしました」
声色を変えて話した。
少しの沈黙の後、衛兵は扉に手を掛ける。両開きの扉がゆっくりと開いた。
カートを押してゼンの部屋に入って行った。
緊張で心臓が喉元で鳴っているようだった。いつのまにか息を殺している自分もいた。
扉が完全に締った時、息が苦しくなり、ふぅと大きく息を吐いた。
部屋に入ると白雪と同じメイド姿をした木々が立っていた。
黒髪のカツラを被り給仕用のキャップもつけている。
木々は唇の前に人差し指を立てて、喋らないようにの合図を送っていた。
木々の名前を叫びそうになったが、そのまま言葉を飲み込んだ。
木々はカートに乗ったお茶をすぐそばにあるテーブルの上に置いた。
「奥の部屋にゼンがいる。あとは私が代わるから、ゼンと話してきて……」
「はい、木々さん」
奥の部屋との境にゼンが無言で立っていた。こちらに向かって手招きをしている。
やっと会えた喜びから思わず小走りになる。黒髪のカツラを外しながらゼンの元へ走っていった。
「白雪!」
奥の部屋に引きずり込まれると同時に抱きしめられる。
背中に回る手の力が強く少し痛かった。久しぶりのゼンの腕の中だ。その痛さも恋しかった。
「こんなことになってゴメン、白雪。婚約は……婚約は必ず解消する!」
更に強く抱きしめられる。
白雪はゼンの腕に手を置き、身体をゆっくりと離す。
「でも……難しいんじゃないの? こんな……会うのもやっとなのに……。
ゼンは王子で、いつか妃を迎えなければいけないのは分かってる……」
ゼンが伯爵令嬢を妃に迎えることは嫌だった。だけれども自分はただの宮廷の薬剤師だ。
ゼンの隣に並べる身分にないことは分かっている。
「その妃は白雪じゃなければ嫌だ。白雪以外の妃なんて迎えるつもりはない!」
肩を抱かれ乱暴にキスされる。貪るように強く唇を吸われ息もできないほどだった。
「んっ……」
ゼンの手は肩から腰に回る。腰で縛ってあるメイド服のエプロンのリボンを解かれ、
エプロンが床に落ちた。背中のボタンに手がかかり、一つずつ外された。
服を降ろされ、あっという間に生まれたままの姿になってしまった。
「ゼン、ちょっと何するのっ! あっ!」
後ろにあったベッドまで連れて行かれる。柔らかなベッドの上に押し倒され、
その上からゼンが覆いかぶさってきた。ゼンの手が口を塞ぐ。
「んんっ!」
「静かに。声を出すと外の衛兵に聞かれる……」
口から離れた手はすぐ胸に触れる。円を描くように両胸を触られて揉みしごかれる。
「白雪が欲しい……妃は…妃は白雪でなければ嫌だ!」
「ゼンっ!」
再びゼンが覆いかぶさり激しく口づけられる。
息をするのも苦しいくらいに口腔内を舐めまわされる。
自分もゼンの舌に絡ませ、彼に応えることがやっとだった。
「我慢できない……」
唇を離したゼンはそう呟くと、身体を起こし白雪の脚首を掴んだ。
両脚を大きく開かされゼンがその間に入る。
こんなに激しく求められたのは初めてだった。ゼンの強い想いが伝わってくる。
これから起こる事を想像し、白雪はギュッと目を瞑った。声が出ないよう、口を一文字に結ぶ。
「じゃあ、白雪……挿れるよ……」
太ももを抱えられ、身体の中心にゼンの固くなったモノが当たった。そのまま白雪の狭い中をズブリと突き進んだ。
「んんっ!」
固くなったゼンが入ってきた衝撃に大きな声が出そうになる。
歯を食いしばり、なんとか声は我慢した。
ゼンの欲望が根元まで入った感覚がした。同時にゼンが腰を振り動き始める。
自分では届かない最奥を、ゼンの欲望が容赦なく突いてくる。
ベッドの軋む音と秘部がこすれあうグチュグチュという音が、
一つ部屋を挟んだ外の衛兵たちに聞こえてしまうのではないかと心配になった。
だが、その心配もかき消されてしまうくらい、ゼンは激しく愛してくれた。
身体を貫くゼンの肉棒の熱さと固さが愛されているのだと感じた。
何度も貫かれるその快感に再び声が出そうになるが白雪は必死に堪えた。
「白雪っ! イクッ!」
絶頂を迎えたゼンを受け入れた。
その後も何度も愛し合い、お互い求め合った。
最後はゼンの腕の中で、あたたかい温もりに包まれて一緒に眠ってしまった。
***
白雪は目を覚ました。
すぐ目の前にゼンの顔があった。長い睫毛を伏せて気持ちよさそうに眠っている。
――どうしてゼンの腕の中にいるのだろう?
目が覚めたばかりでぼうっとしてしまい、どうして裸で抱き合って眠っているのか、
思い出せなかった。だが、少し考えるとすぐに目が覚めた。
眠る前のことをすべて思い出し現実に引き戻される。
白雪はゼンを起こさないよう、そっと腕から抜け出す。
自分がいなくなったことでゼンは寝返りを打ったが目を覚ますことはなかった。
――ゼンは王子で、いつか妃を迎えなければいけない。
そのことは頭ではわかっていた。先ほどゼンにもそう伝えた。
頭では分かっているが、気持ちがついていかなかった。
やっぱりゼンが好きだ。他の人と結婚してしまうなんて考えられない。
ゼンと伯爵令嬢が結婚し、一緒に並ぶ姿なんて見たくない。そんなこと耐えられなかった。
床に落ちている服を着て、黒髪のカツラと給仕用のキャップと手に取った。
髪を結ってきた赤の髪紐がないことに気づいた。白雪は左右を見回す。赤い髪紐はどこにもなかった。
仕方がないので、黒髪のカツラの中に無理やり赤い髪を押し込んだ。キャップを被れば髪は隠れるはずだ。
ゼンが目を覚まさないうちにここを……王宮を出よう。
無期限休暇の辞令が出たからではない。
ゼンが他の女性と並ぶ姿を見たくなかった。
ここにはいられなかった。
――今ならまだ出て行ける。
白雪は目を閉じる。
頬に一筋、涙が伝わった。
「ゼン、大好き……」
よく眠っているゼンの頬に軽くキスをした。
「ん……」
ゼンの顔が少し動いた。起こしてしまったのかと思いドキリとしたが、
そうではなかった。スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
白雪は窓の方へ近寄る。
帰りは窓から帰るよう、オビから言われていた。
誰もいないことを確認し、白雪は窓の外に音を立てずに出た。
外に出たらオビが待っているかと思ったが、オビはいなかった。
全速力で薬室に戻り、簡単に身支度した。
突然出て行くことのお詫びと、今までのお礼簡潔に書いて、手紙を机の上に置いた。
誰にも見つからないように、日が昇る前にここを出なければならない。
夜明け前に王宮裏門の門番の交代があるはずだ。
白雪は門番の交代の時間を見計らって、王宮をそっと抜け出した。
荷物を持つ手に力が入る。ふと、その手が震えていることに気づいた。
歩く度に頬に涙が伝わっていた。
どこか遠くに行こう。
ゼンが結婚した噂など届かない、どこか遠くへ。
ゼンのことは、王宮で出会ったみんなのことは、一生忘れない。ずっとずっと心にある。
大好きなゼンはずっとこの心の中にいる――。この想いだけは忘れない。
溢れ出る涙を拭いながら、白雪は前へ前へと進んだ。
3. 森の中のユラシグレ
ゼンはタンバルン国境付近の砦に来ていた。
ここ数年、クラリネス国内の治安が悪くなっていた。
原因は国内に蔓延する流行病にある。
病は人々の心を不安にさせ、経済を乱し、国内を不安定にさせていた。
タンバルンとの国境付近には盗賊も多くなってきている。
第二王子であるゼンは、国境付近を取り締まるため、ミツヒデたちと共に砦に来ていた。
「そろそろ引き返そうか、ゼン」
馬上からミツヒデに声をかけられる。
後ろに続く木々とオビも視線でそう訴えていた。
少々時間があったので、砦から離れて馬を走らせていた。視察を兼ねての気分転換でもあった。
「日が沈むまでにまだ時間はある。幸い今日は天気もいい。もう少し奥まで行くぞ」
ミツヒデと木々は顔を見合わせて同時に息をつく。
オビもやれやれとお手上げのポーズを取っていた。そんな3人を無視してゼンは森の奥へ馬を進める。
「ゼン」
「なんだ?」
ミツヒデは加速しゼンと馬を並べた。何か言いたいことがあるようだ。
「妃の件、そろそろ決めないと……」
ミツヒデは前を向いたまま小さめの声でゼンに言った。
「わかっている……」
ゼンは不機嫌な声で返事をした。ミツヒデを追い越し更に前へと進んだ。
白雪が城を出て行ってから、もうすぐ8年になる。
いなくなった当時は、白雪の事を必死に探した。
ガラクの紹介した就職先に白雪は来ていなかった。
城下のありとあらゆる薬屋を当たり、皆にも協力してもらい白雪を探した。
王宮を出て白雪は何処へ行ったのだろう?
婚約は必ず解消すると伝えたのに、信じてもらえなかった。当時はものすごくショックだった。
白雪は自分の意志で王宮を出て行った。
そう納得するまで何年もかかった。
今はもう彼女を探すことはないが、こうして遠出をすると、少しでも長く外にいたいと思ってしまう。
心のどこかではまだ白雪の事を探しているのかもしれない。
馬を早く走らせて風を切る。
春の新緑の匂いが混じった空気が心地良かった。
爽やかな風が心に残る、もやもやとしたものを消してくれるような気がする。だから森は好きなのだ。
そういえば、白雪と始めて会ったのも森だった。思い出すとまた切ない気持ちになった。
今、白雪は一体どこにいるのだろう? 無事なのであろうか? 安否さえもわからない。
今はこの青い空の下で元気でいてくれればいい。そう思うようになった。
「ゼン、本当にそろそろ引き返そう。このまま進むと森の中で迷いそうだ」
ミツヒデは引き返すよう、主人に提案した。
かなり森の奥に進んでしまった。日暮れまではまだ時間はあるが、迷ったりしては大変である。
「そうだな、引き返すか……付き合ってもらって悪かった」
ゼンは馬を止めた。
確かにこれ以上、森の奥深くに進むことは危険であった。
国境付近は以前より治安が悪く、いつ盗賊に襲われてもおかしくはないのだ。
引き返そうと手綱を持ち替えたとき、オビがその場に馬と共に留まった。木の根元をじっと見つめている。
「どうした? オビ?」
「あれ、ユラシグレじゃないですかね?」
オビの指さした木の根元に、見覚えのある赤い花が数輪咲いていた。
宮廷薬剤師の試験の時に使われたあのユラシグレの花が咲いていたのである。
「本当だ。ユラシグレだ!」
ゼンは懐かしさに馬から降り、ユラシグレの咲く木の根元に腰を降ろした。
この花を見るのは久しぶりだった。以前は薬室によく顔を出していたのだが、
白雪がいなくなってからは彼女を思い出すのが辛くて薬室からも遠ざかっていた。
この花を見るのは8年ぶりかもしれない。
「思い出しますね、主……」
オビが苦笑いする。気持ちを伝えることはなかったが、オビも白雪の事を好きだったはずである。
姿を消した当時は、一緒になって必死に彼女を探した。
「言うな、オビ……」
こちらも苦笑いを返す。今は思うと、お互い苦笑いできるくらい程になった。それだけの長い時間が経過したのだ。
「どうしたの? 二人とも?」
木々も興味を示し、馬から降りてきた。花を見つめて納得したのか、木々も穏やかな笑顔になる。
「懐かしい花だね」
誰も口には出さないが、同じ人物のことを思っている。3人でユラシグレの花を見つめる。
その時だった。
突然、頭上の木がガサガサと音を立て始めた。
今日は穏やかな晴天で強い風など吹いていないはずである。
おかしいと思い木を見上げると、太い枝が木の根元から折れて頭上に迫っていた。
「危ないっ! ゼン!」
ミツヒデの叫ぶ声が聞こえた。
太い木の枝がゼン達の身体の上に降ってきた。その光景はスローモーションのように見えた。
ガサガサと大きな音を立てて木は地面めがけて落ちてきた。
ゼンは大きな手で背中を突き飛ばされた。気づいた時には地面にひれ伏していた。
ゆっくり起き上がる。所々、かすり傷はあるが、大きな怪我はしていないようだった。
「ミツヒデっ!」
「ミツヒデの旦那! 大丈夫ですか?」
ゼンは声の方を振り向いた。
ミツヒデが太い木の枝の下敷きになっていたのである。
ゼンはすぐさま駆け寄り、オビと一緒に木の枝をどかした。
「ミツヒデ! 大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ、ゼン。怪我はないか?」
ミツヒデは左肩を押さえながら起き上がろうとする。
「俺は大丈夫だ。ミツヒデ、ひどい怪我じゃないか!」
ミツヒデはゼン達をかばい、落ちてくる木の下敷きになったのである。
主人であるゼンを突き飛ばし、木々とオビをかばい犠牲となった。
左肩から腕にかけて枝が直撃したらしく、破れた服の間からは血が滲み出ていた。
「大丈夫だ。たいしたことない、動ける……うっ!」
立ち上がろうとしたミツヒデが左肩を押さえ膝をつく。木の枝で体中が擦り傷だらけだった。
「みんなは……大丈夫か?」
ミツヒデが辛そうな顔でたずねた。
「私たちは大丈夫。かすり傷だよ」
木々が青い顔でミツヒデを支える。
「どこかで手当てしないと……こんなときにお嬢さんがいてくれたら……」
「オビっ!」
木々が強い口調でオビの名前を呼んだ。オビはしまったという顔になる。
「とにかく……どこか手当する場所を探さないと……」
ゼンはミツヒデの肩に手を添え、森の中を見回す。
随分、森の奥まで進んでしまったため、民家や休憩ができそうな場所は辺りにはなかった。
その時であった。
ガサガサ!
数メートル先の茂みが動いた。
4人は音のする方向を同時に見つめる。
何かが茂みの中で動いている。キツネやタヌキではない。
もう少し大きい、人のような気配だった。タンバルン国境付近のこの森は、治安が悪くなっていた。
まだ明るいが盗賊が出てもおかしくない。ミツヒデがこんな状態で襲われたら勝ち目がない。
ゼンとオビは剣に手を掛ける。
「誰? 誰かいるの!?」
木々がミツヒデの前に立ちはだかる。
茂みは動き続けている。
剣を握る手に汗がにじむ。人ではなく小動物であることを願う。
ゼンはこんな森の奥深くまで来たことを後悔した。ミツヒデたちの言うとおり、もう少し早く引き返していればよかった。
茂みの中から小さな頭が飛び出した。
動いていたのは小動物ではなく人間だった。
人間ではあるが盗賊ではなかった。先ほど見ていたユラシグレと同じくらい赤い髪の少年が出てきたのである。
「子供……」
木々が小さな声で呟いた。ゼンをはじめ、安堵の溜息をつく。剣を握る手を緩めた。
茂みから出てきたのは、まだ6、7歳の小さな男の子であった。
目を引いたのは赤い髪だった。
ユラシグレより少し薄いであろうか。くせのない赤い髪はまっすぐで、
小さな顔を耳のあたりまで包んでいた。少年はまっすぐにこちらを見つめている。
クリクリとした大きな瞳は瞬きを繰り返していた。その瞳はブルーで、まるで雲一つない青空のようだった。
「この辺の子かな?」
オビが言った。
「ねえ、僕。どこかこの辺りに休めるところないかな?」
木々が優しい声でたずねる。赤い髪の少年は瞬きを繰り返すばかりで何も話さない。
「俺たち困っているんだ。どこかないかな?」
しばらくの沈黙が訪れる。こちらを見つめるばかりで少年は答えようとしなかった。
「知らない人と話しちゃダメって、お母さんに言われてる……」
茂みの中から顔だけ出して赤い髪の少年は答えた。
木々とオビは溜息を漏らす。
そういうことか、物騒な世の中だ。知らない人とは口を聞くなと教育されているのであろう。
「……その人、怪我しているの?」
少年はミツヒデを指さす。肩から血が出ており、大変な状態にあることは子供にもわかるらしい。
「そうなの。怪我しているの。だからどこか休めるところないかな?」
木々が再びたずねた。
少年は茂みの中から姿を現し、ニヤリと笑う。
「知らない人と話しちゃいけないって言われているけど、
怪我をしているなら仕方ない。いいよ、休めるところに案内してあげるよ」
少年は得意げに笑う。上から目線で偉そうであった。
「なんだ、偉そうだな」
ゼンが不機嫌に呟く。
「ちょっと生意気ですね。でもなんとなく雰囲気が主に似てません?」
「うんうん、似てる。特に生意気なところ」
「うん、似てるな」
怪我をしているミツヒデも会話に入ってきた。
「なっ……俺はあんな生意気な子供ではないぞっ!」
ゼンが言い返したが誰も聞いていなかった。
少年は「こっちだよ」と言って、案内をしてくれた。
ミツヒデはオビが抱え、乗ってきた馬はゼンと木々で手分けして引き、少年の後をついていった。
「僕の家においでよ。僕の家、薬屋なんだ。簡単な手当てもできるよ」
「そうなのか、それは助かる」
偶然だが、薬屋の少年に会えたことは運がいい。ゼンはそう思った。
少年の後をついて森を進むと行き止まりと思われる岩場にぶつかった。
ここから何処へ行くのかと思ったら、岩場の端の方にある草むらの中に入って行った。
なんとか人がすれ違うことができるくらいの細い獣道で、連れていた馬が通るのがやっとだった。
道を進んで行くと、小さな集落が広がる。
数件のログハウスがゼン達の目の前に建っていた。
「こんな所に家が……」
ゼン達は驚く。
行き止まりと思われる岩場の向こうに、こんな集落があるなんて思いもしない。
これなら治安の悪いタンバルン国境付近でも安全かもしれない。興味深々で集落を見つめる。
「僕の家、こっちだよ」
少年は一件のログハウスを指さした。集落の中で一番庭に緑が多い家だった。
よく見るとそれはすべて薬草で、見覚えのある薬草もあった。綺麗に植えられた草木はよく手入れがされている。
馬をログハウスの脇に止めた。ゼンはオビと一緒にミツヒデを抱えた。
「それにしても……すごい髪の色だな……」
ゼンはミツヒデを支えていない方の手でユラシグレより少し薄い少年の赤い髪を撫でた。
「ちょっとゼン、勝手に触っちゃダメよ……」
木々に注意される。手を引っ込めたところで少年はゼンの方を向いた。
キラキラとした青い瞳でゼンのことを不思議そうに見つめている。
「おにーさんもゼンって名前なの? 偶然だね、僕もゼンだよ。それにお母さんは僕よりももっと綺麗な赤い髪だよ」
少年はニコリと笑う。目が一筋の糸のようになる。
「えっ……今、なんて?」
聞き返すゼンをよそに、少年は家の中に入ってゆく。
「おかーさん、森の中で怪我してる人見つけたよ! 手当てしてあげて、お母さん!」
扉を開けて少年が玄関に入って行った。
ログハウスに足を踏み入れる。
木々を先頭にミツヒデを抱えたゼンとオビが後ろに続いた。
部屋の奥から足音が聞こえてきた。人影が現れる。
木々が突然止まる。
前へ進むと思っていたので、後ろの3人は木々の背中にぶつかった。
「おい、木々。急に止まるなよ、何やって……」
木々が正面を向き硬直していた。
ゼンも木々が見つめる前方に視線を移した。
「まあ、森の中で怪我を……それはお困りでしょう。どうぞ、こちらへ」
それは聞き覚えのある声だった。
この声を耳が……全身が……心が覚えていた。
ゼンの身体は小刻みに震える。
「ほら、僕のお母さん! 林檎みたいに綺麗な赤い髪でしょ!」
少年は母親の腰に抱きつき、ゼン達を見つめ嬉しそうに笑った。
目の前には少年よりも赤い……ユラシグレと同じ色の赤い髪の女性が立っていた。
ゼンは目を見開く。
「白雪……」
その名前を本人に向かって呼んだのは、8年ぶりのことであった。
4. 再会
「ゼン、オビ、木々さん、ミツヒデさん……」
名乗っていなのに名前を呼ばれた。
8年前に王宮から突然いなくなった白雪に間違いない。
白雪は目を見開き、驚きの表情でこちらを見つめている。
「白雪……どうしてこんなところに……」
木々が白雪と赤い髪の少年を交互に見つめる。
「白雪……」
ゼンはもう一度名前を呼んだ。オビも小さな声で「お嬢さん」と言っていた。
「知り合いなの? お母さん?」
赤い髪の少年が白雪を見上げて聞く。
「う、うん……昔のね……。ミツヒデさん、怪我をされたんですね。
治療しますのでどうぞこちらへ。ゼン、皆さんにお茶を入れてさしあげて。できるでしょ?」
白雪が少年の肩に触れる。
「うん、できるよ。何のお茶?」
「紅茶でいいわ」
「わかった!」
少年は大きく頷き、右の部屋に入って行った。
「ミツヒデさん、こちらに……奥へどうぞ。手当てしますね」
「ああ、ありがとう。白雪……」
ミツヒデと木々が白雪の後に続いた。
ゼンとオビは状況が飲み込めず、その場に呆然と立ち尽くしていた。
「いやぁ〜驚いたな。まさか白雪が出てくると思わなかったよ。おかげで傷の痛みも吹き飛んだ!」
奥の部屋に案内され、ミツヒデは白雪の治療を受けていた。隣に木々が立つ。
「お久しぶりです。ミツヒデさん、木々さん」
「久しぶり」
木々がニッコリと笑う。
「この傷はどうされたんですか?」
白雪は傷口の消毒をしながら聞いた。
「折れた木の枝が落ちてきて、その下敷きになったの。ゼンをかばってこの怪我よ」
木々が呆れたように話す。
「なんだか恰好悪いなぁ〜」
ミツヒデが苦笑いする。
「そうですか……。出血はありますが、傷はそんなに深くないです。あとは打ち身ですね。
今は痛むかもしれませんが、冷やして鎮痛用の薬草を塗れば和らいでくると思います。全治2週間ですね」
「そう、よかった」
木々が安堵する。
「だから言っただろう、大した傷じゃないって。そんな心配することないのに……あいててて!」
消毒液にミツヒデが声を上げる。
「白雪に会えて傷の痛みも吹き飛んだんじゃないの? ミツヒデ?」
「そ、そうだっけか?」
部屋に笑い声が響く。離れていた時間など忘れたかのように3人は笑いあった。
「薬草作ってきますね。ミツヒデさん、この部屋で待っていてください」
白雪が会釈をして部屋を出て行った。
木々とミツヒデはお互い顔を見合わせた。
***
「白雪」
木々は白雪が薬草を擦っている部屋へ足を運んだ。
白雪は薬研を使って薬草を擦っていた。
王宮の薬室で何度か見たことのある薬草を擦るための滑車の付いた道具である。
「木々さん……」
白雪は一瞬手を止めて木々を振り返る。
「こんなところで白雪に会えるなんて本当に驚いた。顔を見たときは驚いて声も出なかったよ……」
「……はい、私も驚きました」
木々の立っている位置からは白雪の横顔しか見えなかった。
真剣な表情で薬草を擦っている。ゴリゴリと部屋には草の潰れる音が響いていた。
木々は聞こうかどうしようか迷っていた。
後で聞くこともできるかもしれない。でももう聞く機会はないかもしれない――。
ゼン、オビ、ミツヒデの中で、自分はただ一人の女性だ。
もしかしたら、自分にしか聞けないことかもしれない。そう思い、木々は少し勇気を出した。
「あの男の子、白雪の子?」
「…………はい」
少々の沈黙の後、白雪は返事をした。
「かわいいね」
白雪の頬は一瞬緩む。自分の子がかわいいと言われ、嬉しそうだった。
「結婚したの?」
笑みが消える。白雪は静かに首を左右にふった。
「うちにも5歳と3歳の子がいるんだけど、あの子、もう少し大きいよね……」
白雪の肩が一瞬ピクリと動く。
「木々さんはミツヒデさんと結婚されたんですか?」
「うん、そう」
自分のことはどうでもよかったので流すように返事をした。
「あの子、何歳?」
数秒の沈黙が流れる。薬草が細かくなってきたのか、音がだんだん静かになっていた。
「……7歳です」
白雪が抑揚のない声で答える。薬草を擦り続けていた。
「そう……。あの子、ゼンに似てるよね……」
白雪の肩がビクリと大きく揺れる。明らかに動揺している。
次の質問は答えてくれるかどうか賭けだった。
でもここまで質問してしまってはもう後には引けない。
「もしかして……ゼンの子?」
薬草を擦る手が完全に止まった。薬研の滑車を持ったまま微動だにしない。
白雪は瞬きせず一点を見つめていた。聞いてはいけない一言だったのだ。
「ごめん、白雪。答えたくなかったらいいよ」
そう言った直後だった。
わずかだが、ほんのわずかだが白雪の首が少しだけ縦に動いた。
木々は見逃さなかった。
――ゴトリ。
白雪は薬研の滑車をテーブルの上に置いた。
細かくなった薬草を紙の上に広げて集めた。
「鎮痛用の薬草ができました。ミツヒデさんに塗ってきますね」
振り返った白雪は笑顔だった。
擦り終わった薬草を持ち、白雪は逃げるように部屋を出て行ってしまった。
***
残されたゼンとオビは玄関で呆然としていた。
二人とも今ある状況が飲み込めなかった。様々な事が頭を駆け巡る。
「オビ……どういうことだ。これ?」
「なんで俺に聞くんです。分かるわけないでしょ……」
「そうだよな……。そうだ! 俺と同じ……あのゼンって名前の子供は何処へ行った。聞きたいことがある!」
「右の部屋に入ってきましたよ。行ってみます?」
「ああ、行こう!」
赤い髪の少年は台所でお茶の支度をしていた。
白雪に言われた通りお湯を沸かし、紅茶の葉をポットに入れている所だった。小さいのに手馴れている。
「おい……ええと、ゼン……」
自分の名前を呼ぶのは不思議な感覚だった。赤い髪の少年はゼンのほうを振り向く。
「なあに? おにーちゃん」
紅茶の葉を入れる手を止める。クリクリとした青い瞳がゼンの青い瞳を見つめていた。
ゼンは少年のすぐ側まで行く。その場に屈み少年と同じ目の高さになった。
「おい、ゼン。お前……何歳だ?」
「7歳になったよ!」
少年は元気に答えた。
ゼンは両手を出して指折り数を数える。オビは主人の姿を見守っていた。
「なったということは、最近誕生日だったのか?」
「うん、この前、お母さんと一緒に誕生日のお祝いした」
少年はニコリと笑い、ゼンの質問に答えた。
「そうか……春生まれか……」
ゼンは再び両手を広げ、ぶつぶつと独り言を言いながら指折り数を数える。
白雪が王宮を出て行ったのは初夏だった。
今は春である。子供が生まれるのって確か10カ月くらいだったはずである。
今まで白雪を探すことに必死で、そういう可能性は考えていなかった。
でも、そういうこともあるのだ。あの最後の夜がきっかけで……。
「おい、ゼン。もう一つ聞きたいことがある。お母さんは結婚しているのか? お父さんはどこにいる?」
ゼンは少年のゼンの肩を優しく叩く。
「お母さんはケッコンしてないよ。お父さんは……いないって言われてる」
ゼンはゴクリと唾を飲み込む。オビと顔を見合わせた。
「そうか……変な事聞いて悪かった」
「ううん、大丈夫」
少年のゼンはニコリと笑う。
「お茶ができました!」
ポットに入ったお茶と4人分のカップが並んでいる。
小さなゼンは褒めて欲しいと言わんばかり、ゼンとオビを見つめてニコニコしていた。
「こんな小さいのにお茶が入れられるなんてすごいですね。主、お茶入れられます?」
オビが大人のゼンに聞く。
「茶ぐらい入れられるぞ! バカにするな!」
「今はでしょ? さすがはお嬢さんの子だ」
オビは頷きながら小さなゼンを褒めた。
「おにーさんたちは剣士様なの?」
小さなゼンが二人の顔を不思議そうに覗き込んでいた。ゼンの持っている剣を指さしていた。
「そうだな、剣士だ。剣は扱える」
ゼンは小さなゼンを見つめ、笑顔で頷く。
「すごい! 剣士様はじめて見たよ!」
小さなゼンは興奮する。
「初めて見たのか? 剣士を?」
「うん! 剣も初めて見た! ねえ、おにーさんの剣に触ってもいい?」
青い瞳は初めて見る剣に興味津々であった。
「鞘から抜かなければいいぞ」
ゼンは剣を小さなゼンの方に向ける。
小さなゼンはおそるおそる剣に触れる。
興味津々に剣を眺めるその瞳はまっすぐで、触れる手は大人よりもずっと小さかった。
やわらかそうな頬には皺が一本もなく、まるで、むいたばかりのゆで卵のようにつやつやであった。
ユラシグレより少し薄い赤い髪も柔らかそうだ。
子供とはこういうものなのか。ミツヒデの子は何度も見ているがそれとは違う。
何か吸い込まれるような不思議な感覚、……目の前の少年の柔らかさについ触れたくなった。
気づくと小さなゼンの赤い頭を撫でていた。
「主。木々嬢に勝手に触るなって言われたでしょ……」
オビが静かに注意する。
「あっ、ごめん」
ゼンは慌てて手を引っ込めた。
「別にいいよ。赤い髪が珍しいんでしょ?」
小さなゼンはニコリと笑った。白雪に比べれば薄いが充分に美しい赤い髪だ。
珍しいと言われることも多いのであろう。
「ま、まあ……な」
ゼンは不自然に笑った。
「いいな、僕も剣士様になりたい。どうやったらなれるの?」
「剣を習いたいのか?」
「うん、やってみたい!」
小さなゼンは元気よく頷いた。
「そうか。じゃあ俺が教えてやる!」
「本当? やった!」
小さなゼンは手を挙げて喜ぶ。
「ああ、必ず教える……」
ゼンは無意識のうちにまた小さなゼンの頭を撫でていた。
「ゼン、ちょっと……」
ミツヒデに付き添っていた木々がゼンの元に顔を出す。ゼンは部屋の隅で木々と向かい合う。
「木々、ミツヒデの具合はどうだ?」
「ミツヒデは大丈夫。擦り傷と打ち身だって。今、白雪に痛み止め塗ってもらっている」
「それならよかった。それよりも木々に聞きたいことがある!」
「何?」
「子供って何カ月くらいで生まれるんだっけ?」
ゼンは真剣な表情で木々を見つめる。
しばらくの沈黙の後、木々はふっと笑った。
「ゼンの子だよ……」
「え?」
「あの子、ゼンの子だよ。白雪にゼンの子かどうか思い切って聞いてみた。白雪、微かに頷いたよ」
「き、聞いたのかっ!? 直接?」
ゼンは驚きのあまり、木々の両肩を掴む。
「うん、もしかしたら私にしか聞けないかなと思って……」
「まさか……本当に……」
ゼンは木々の肩から手を離す。急激な展開に頭と気持ちがついていけなかった。
白雪と再び会えたこと。
白雪に子供がいたこと。その子供は自分にそっくりであること……。
それだけでも十分に驚くことなのに、まさか本当に自分の子だなんて……。
自分の血を分けた子がこの世に存在していたなんて……。
ゼンは驚きのあまり言葉を失い、呆然とする。
「ミツヒデさんの手当て終わりました。もうしばらくしたら痛み止めも効いて動けるようになると思います」
白雪が部屋に入ってきた。
笑顔はなく、単調に経過を報告しているだけだった。
「お母さん、お茶入れたよ」
小さなゼンが白雪の元へかけてゆく。
「そう、ありがとう」
赤い髪を軽く撫でる。白雪は息子に向かって微笑む。
「白雪……話があるんだ」
白雪の肩がビクリとなる。ゼンと視線は合わせない。笑顔は消え、表情が硬いものとなる。
「今更、何も責めたりしない……少しでいい。二人で話せないか?」
ゼンは穏やかな笑顔であった。
白雪はその場で俯き、小さなゼンの肩に手を置いたまま固まる。
長い長い沈黙の後、白雪はゆっくりと頷いた。
5. ゼンの決意
「かわいい方のゼン、こっちで俺と遊ぼうか? お母さんは大きいゼンとお話があるんだ」
オビが屈み、小さなゼンと同じ目線になる。
ゼンと白雪が二人きりで話ができるよう、オビが気を利かせた。
「かわいい方ってどういうことだ、オビ。まるで俺がかわいげがないみたいじゃないか……」
「え? 本当のことでしょ。主?」
オビがニヤリと笑う。木々とミツヒデも主人の為に小さなゼンと一緒に遊ぼうとしてくれていた。
「じゃあ、ゼン。こっちの一番奥の部屋にどうぞ……」
白雪の表情は明るいものではなかった。どちらかというと暗かった。
二人きりで話をするのは、気が進まないようだ。
話がしたいとは言ったのは自分だが、それなりの緊張はあった。
白雪に奥の部屋へ案内される。薬を作る部屋らしく、薬草を擦る薬研が置いてあった。
壁側にある本棚には薬草関連の本が並んでいた。
部屋の中央にあるテーブルに小さなゼンの入れてくれたお茶が置かれる。
「あまり綺麗な所じゃなくてごめんなさい。どうぞ、座って」
「ああ、大丈夫だ」
椅子をすすめられ、白雪と向かい合う形で座ることになった。
白雪は俯き、目は合わせてくれなかった。
笑みはなくテーブルの上に置かれているお茶をじっと見つめている。
沈黙が苦しかった。話がしたいと言ったのは自分だ。最初に何か話さなければならない。
「ミツヒデの手当てをしてくれてありがとう」
「いえ……」
白雪が小さく首をふる。まだこちらは向いてくれない。
8年前、何も言わずに王宮からいなくなった理由は聞かないことにした。
今更聞いても仕方がないことだ。でも、確認したことがある。
「白雪……」
「はい」
小さな返事が返ってきた。話をしてくれる気持ちはあるのだろう。
「8年前、白雪が出て行ってから……俺がどうしたか知っているか?」
今、白雪が住んでいるこの隠れた地域。
岩場の向こうの存在を知っている者しか入ることのできないこの土地には、
外の世界から隔離されていると言ってもいい。
両国の国境付近の……クラリネスともタンバルンとも区別のつかないこの土地には、
一体どれくらいの情報が流れてきているのだろう。
白雪はなかなか話そうとしてくれなかった。
もしかしたら何も知らないのかもしれない。もういいと言いかけたその時だった。
白雪の唇が微かに動いた。
「伯爵令嬢のお妃を迎えて……、そのお妃様は何年か前に病で亡くなられたと聞きました」
白雪はテーブルの一点を見つめ静かに答える。
「そうだ。妃が亡くなったのは4年前になる」
ゼンの言葉に白雪は静かに頷く。視線は合わせてくれない。
「白雪、子供がいたんだな。驚いた」
「……はい」
白雪はしっかり頷く。
「ミツヒデと木々にもいるぞ。5歳の男の子と3歳の女の子だ」
「はい、さっき木々さんから聞きました」
「白雪の子……赤い髪に瞳はブルーだな。
木々、ミツヒデ、オビの3人が俺に似ていると言う……。俺もそうなのかなと思う……」
白雪は俯いたまま何も言わない。肩に力が入っていることがわかった。
ゼンは話し続ける。
「もしかして……あの時の夜の……最後に過ごした夜の時の子か?」
白雪がギュッと目を瞑る。しばらくの沈黙の後、泣き出しそうな声を発した。
「勝手に生んでごめんなさい」
ゼンに向かって深く頭を下げる。
「そ、そうなのか……。いや、ビックリしたぞ。本当にビックリした。ああ、そうか……」
「え?」
白雪は頭を上げる。
ゼンは大きく息をつく。テーブルの上に肘をつき、胸に手を当てていた。
頬は緩み「そうか、そうなのか」と宙を見て嬉しそうに一人で呟いていた。
「ゼン?」
白雪は不思議そうにゼンを見つめる
「白雪に突然出会えて、俺と同じ名前の子供がいて……今、俺はものすごく動揺している。
頭が混乱状態だ。どう気持ちを整理したらいいかわからない。
でも……、一つだけ言えることがある。白雪、生んでくれてありがとう!」
ゼンは笑顔で礼を言った。
白雪はハッとした表情になる。両肩が微かに震えだし、瞳が潤んでゆく。
「あの……ひとつお願いがあるの」
白雪がまっすぐにゼンを見つめる。
「なんだ?」
「小さなゼンには……ゼンが父親だって今は言わないで欲しいの……」
二人の間の過ぎ去った8年間。
空白の時間に、お互い何が起きていたのか知らない。
今は探るべき時期ではない。白雪の言う事に素直に従おうと思った。
「わかった」
ゼンは笑顔で頷いた。
話を終え、小さなゼンと遊んでいるオビ、木々、ミツヒデの元へ戻った。
日が暮れる前に砦へ帰らなければならない。馬の支度をし、帰る準備をした。
白雪は小さなゼンと共に玄関に立ち、皆を見送る。
「白雪、今日は会えて嬉しかった。俺たちは国境付近の砦にしばらく滞在している。
後日、ミツヒデを手当てしてくれた礼をしたい。また日を改めて伺う」
「お礼なんていいです」
白雪は首を振る。
「いや、礼がしたい。必ずまた来る……」
ゼンはそう宣言する。
「お嬢さん、今日は会えて嬉しかったです」
「ありがとう、オビ」
「白雪、手当てありがとう。薬草も効いてきて、これなら帰れそうだ」
ミツヒデは怪我をした腕をさする。
「お大事にミツヒデさん」
「白雪、またね。ミツヒデを手当てしてくれてありがとう」
「とんでもありません、木々さん」
白雪は一礼する。すぐ横には小さなゼンがぴったりと寄り添っていた。
「またな、ゼン」
ゼンは小さなゼンの赤い頭を撫でた。
「うん、またね! ゼンおにーちゃん、今度、剣術教えてね!」
「ああ、必ず教える。約束しよう!」
「うん!」
二人のゼンはお互い強く頷いた。
ゼン達一行は岩場の奥の秘密の土地を後にした。
日暮れまでに砦へ戻らなければならないため、少々早く馬を走らせていた。
行きよりもずっと空気が冷たくなっていた。季節は春であったが、
日が落ちかけると森の空気は一気に冷え込む。
体に吹き付ける風は冷たかったが、ゼンの気持ちはあたたかく軽やかだった。
馬の速度を少し緩め、後ろを走るミツヒデの馬に併走させる。
「ミツヒデ、決めたぞ!」
「何を決めたんだ?」
「妃の件だ。今度こそ……今度こそ白雪を妃にする!」
ゼンはそう強く宣言した。
ミツヒデは主人の横顔を見つめる。
ゼンのこんなすがすがしい表情は何年振りであろう。
白雪と別れてからのゼンは、どんなに楽しいことがあっても心から笑っていなかった。
どこか寂しそうであった。今のゼンにその寂しさはなかった。
まっすぐに前を見つめ、その瞳は希望に満ちていた。
「ああ、わかった!」
ミツヒデは笑顔で強く頷いた。
後ろに続くオビと木々も顔を見合わせる。共に笑顔で頷いた。
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