遥か地平線の彼方の海。その深海には人魚たちが住んでいました。
人魚たちはある特殊な組織を作っていました。
その名も閻魔庁。死者の魂を冥界に導く人魚の組織です。
閻魔庁には黒いハリのある髪にアメジストのような輝きを持つ紫の瞳を持った
美しい人魚がいました。名前は都筑。彼は閻魔庁の中でも「召喚科」という科に属していました。
仕事はあまりよくできるほうではありません。建物を破壊したり、買い食いをしたり、
必要以上に科の経費を使いまくる疫病神みたいな存在でした。
そんな海の奥底の閻魔庁で働く人魚は、ある一定の成績をあげると海面へ出て人間界を
見学することが許されていました。都筑は90年以上も死神人魚をやっている古参でしたが、
成績が悪かったため、今まで一度も人間の世界を目にしたことがありません。
ずっと海底暮らしです。そんな都筑にも90年以上たってやっと海の上の世界を
目にしていいとの許可が課長の近衛からでました。
「うれしい! やっと憧れの人間の世界を目にできるんだ。海底もサンゴ礁や海草など
綺麗なものがいっぱいあるけど、人間界にはもっと変わった、
不思議なものがいっぱいあるんだろうな!」
都筑は嬉しくてたまりません。今まで地上へ出た先輩や後輩達の話しによると
それは変わった世界だと言うのです。海水がない代わりに、海の色よりももっと澄んだ大きな空が
あると言います。大きな空にはかもめが舞い、綿菓子のような白い雲が
ふわふわとおいしそうに浮いていると話です。地上には人魚ではなく人間という生き物がいて、
尾がないかわりに、手をもっと太く長くしたような2本の「足」というものがついているといいます。
彼らは「船」という乗り物で旅を大きな海を渡ると海面に出た人魚たちは言っていました。
「人間を見ることができるのかぁ、楽しみだなぁ。嬉しいなぁ」
紫の瞳は好奇心キラキラと輝いており、瞬きをすると瞳から好奇心がこぼれおちそうなほどでした。
「都筑もやっと海面へ出ることができるんやな。まあ、気をつけてな!」
「地上でもバカやるんじゃないぞ!」
同僚の密や亘理も快く見送ってくれました。
「都筑や、くれぐれも人間に姿はみられないようにな。それと、間違っても人間に恋などするでないぞ」
地上への許可を出した近衛は念を押すように言いました。
「うん、わかったよ。じゃあ行ってくるね!」
海底に立っている都筑は上を向き、尾っぽを揺らしたと思うと、
高く高く海面へ向かって泳いでいきました。
ザバッ!
数十分かけてやっとのことで海面へ出ました。
初めての地上、初めての空気、初めての青空。
閻魔庁の仲間が言ったとおりです。海よりももっと大きな空に紫の瞳は驚きました。
マリンブルーの空にはおいしそうな綿菓子が浮いています。
「食べたいなぁ、おいしそうだなぁ。あっ、あの雲はソフトクリームの形をしている!」
風によりどんどん姿を変える雲に都筑は釘漬けでした。
「ソフトクリームだと思ったら、今度はクロワッサンになった。次はバナナだ!」
時間を忘れて空を見ていると、遠くから大きな塊が近づいてきました。
人間の乗った観光用の船です。
「な、なんだあれ? あれが船か? 船でチョコチョコ動いているのが人間というものか?」
都筑は隠れました。近衛に姿をみられはいけないと言われているからです。
隠れたけれど興味はあります。人間というものを目の前で見てみたかったのです。
尾っぽの代わりの2本足で歩く人間。都筑にはとても珍しいものでした。
「ふうん、あれが人間か」
見つからないように海面からこっそりと紫の瞳で覗き見していました。
しばらく見ていると、船のデッキに凛々しいスーツ姿の一人の青年が現れました。
少し寂しげな表情をした聡明な顔立ちをした若い男です。鼻筋がすっと通っており、
鼻根にかけられた薄い縁取りの眼鏡のレンズが海面にキラキラと反射しています。
レンズの奥には利発そうな瞳が隠れています。
「わああああ、あの人素敵……」
都筑はその青年から目が離せませんでした。性別なんて関係ない。憧れずにはいられません。
「巽さんちょっと」
船のデッキで声がしました。
「今行く」
眼鏡の凛々しい青年は声のする方へ引きこまれていきました。
「巽さん……、あの人巽さんっていうんだ……」
誰もいなくなった船のデッキをずっと紫の瞳はみつめていました。
人魚の世界に戻ってからも都筑は巽という人間のことを忘れられませんでした。
どうにかしてもう一度会いたい。会うだけじゃなくて、ずっと一緒にいたい。そう思いました。
近衛に釘を刺されたにも関わらず、人間に恋をしてしまったのです。
都筑はある決心をしました。人魚を捨てて人間になる決心です。
人魚から人間になる方法は一つだけありました。人魚界の鬼畜とも言われる魔女……
いや魔男、邑輝人魚に頼むことです。彼の妖魔術で尾っぽを2本の足に変えてもらうのです。
「おやおや、都筑さん。どうしたんですか? まあ、あなたの頼みはお見通しですが」
銀髪から見え隠れしている銀の瞳が意地悪そうな輝きを放っていました。
「お、俺を人間に変えて欲しいんです。尾っぽの代わりに二本の足が欲しいんです」
紫の瞳は不安のあまり泳いでいるかのようでした。
「どうして人間になんてなりたいんだい? 死神人魚は不老不死だよ。人間なんて
長生きしたって80年だ。それもよぼよぼの老いた姿で。そんな人間にどうしてなりたいんだい?」
不吉な笑みを浮かべながら妖しくたずねました。
「実は……、人間に恋をしてしまったんです。あの方なしにもう生きてはいけません。
ずっと側にいたいんです」
都筑は妖魔術を操る魔男にすがりました。
「フフフ。いいでしょう。でもタダというわけにはいきません。二本の足をあげるかわりに
あなたのかわいらしい声を頂きます。それと……、恋した青年の妻になることが約束です。
もし、妻となれないようであれば……、私の妻となるのです!」
邑輝の要求は都筑にとって全く有利なものではありませんでした。
声を奪われ、妻になれなかったら邑輝のものにならなくてはいけないのです。
どう考えても邑輝の不当な要求です。自分にとって不利なことだとわかっていても
都筑は二本の足を手に入れることを望みました。
都筑は邑輝に二本の足を手に入れる薬を貰い、地上に出てその薬を飲みました。
飲んだとたん、激しい苦しみに襲われました。尾っぽが引き裂かれる! 熱を発生しているのが
わかりました。あまりの痛みから都筑は気絶してしまいました。
次に目を覚ましたときには、都筑はベッドに眠っていました。
ふんわりとした柔らかい羽毛で包まれたベッドです。
「気がつきましたか?」
都筑は声のする方を向きました。
こんな偶然ってあるのでしょうか? なんと恋した青年巽さんが目の前にいたのです。
「…………」
(巽さん!)
都筑はそう叫んだつもりでした。しかし声になりません。
声は邑輝に奪われてしまったのです。
「近くの浜辺で裸で倒れていたから心配しましたよ。体の調子はどうです?
どこか痛いところはありませんか?」
やさしく巽さんは聞いてくれました。しかし、声を出そうとしたけど全く出ません。
口がパクパク動くだけでした。
「どうしたのかな? 君はもしかして喋れないのかな?」
眼鏡の置くの瞳が心配そうに見つめました。
「かわいそうに。どこか行く宛てはあるの? もしなかったら、ここにいつまでもいていいよ」
都筑は巽のことばのとおり置いてもらうことにしました。
巽さんの本名は巽征一郎。なんと、花ゆめ王国の王子だというのです。
王子の小間使いとして巽の王宮に置いてもらうことになりました。
名前はなんだと聞かれました。しかし都筑に答えることはできません。
仕方ないので都筑は浜辺に行って、浜辺の砂に指で「つづき」と書きました。
巽はわかってくれたようです。
「そうですか、都筑さんというのですか。いい名前ですね。今夜はパーティーです。
たくさんおいしいものを食べましょう!」
パーティーにはたくさんのご馳走がありました。都筑の好きな甘いものがいっぱいです。
巽も側にいてくれるし、幸せでいっぱいでした。喋ることはできないけど、心は通じていたので
不自由はしませんでした。巽は都筑の思うことは100%わかってくれるかのようでした。
声は出ないけど、心の声は通じていたのです。
「都筑さん、あなたは本当に甘いものが好きですね。あなたの甘いものをほおばる姿を
見ているとなんだか心が和みますよ」
巽のやさしい言葉に、都筑の頬の筋肉は緩みっぱなしです。
ある日、都筑と巽は浜辺を散歩しました。王宮からすぐ側の浜辺です。
都筑は海と同じくらい広く、青い空を指差して巽に何かか訴えました。
「どうしたんです? 都筑さん。空に何か……?」
都筑は空に浮かぶ雲を指差しました。雲を指した指を口に持ってきてくわえました。
ヨダレを口の端にためながら。
「何? 雲ですか?」
都筑はうんうんと頷きます。
(雲、食べたい)
都筑は声のでない口でそう言いました。都筑は空に浮かぶ雲を綿菓子だと信じていたのです。
巽はわかってくれたようです。
「ああ、都筑さん。あれは食べ物ではないんですよ。雲といって水蒸気の塊なんです」
巽に食べ物ではないということを説明されガックリとうなだれました。
「そんなに残念がらないでくださいよ。こんど大きなパーティーがあります。
そこでおいしいものがいっぱい食べれられますよ」
巽の言葉に都筑の顔はパッと明るくなりました。
「私の結婚式です、隣の少コミ王国のカイル皇子(小学館 少女コミック 天は赤い河のほとりより)
と結婚するんです」
明るくなった顔は反転して都筑の顔は真っ暗になりました。
巽が結婚。それも隣国の皇子と! 邑輝との約束では巽の妻の座にたたないと、邑輝のものとなる
約束です。胸がドキドキ高鳴りました。邑輝のものとなるのも嫌ですが、大好きな巽さんが
他の男と結婚してしまう。他の男のものになってしまう。
そう思うと胸がつぶれる想いでした。
少コミ王国のカイル皇子は立派な皇子だといいます。少コミで6年以上も連載をしている
人気作品のヒーローです。人望も厚く、身分も高いといわれます。頭もとてもいいようです。
そんな超人的なヒーローに都筑が敵うわけがありません。落ち込みました。
でも、巽さんがそれで幸せになってくれるなら……。そう思いあきらめようともしました。
ですが、妻の座にたたないと邑輝のものになってしまうのです。
それも困ります。都筑は浜辺で悩んでしました。
「都筑!」
誰もいないはずの浜辺で声がしました。
声のほうを見ると死神人魚の密と亘理がいました。
(密、亘理!)
と声のでない口から叫びました。
「都筑、事情はだいたいわかっている。巽という男のことはあきらめて、
いますぐこの剣で巽の胸を突き刺して殺すんだ。この剣はロウソクの館の伯爵の作ってくれた
怪魔術の剣だ。そうすれば、お前は邑輝のものになることもなく
いままでどうり人魚としての生活を送ることができる。助かる道はそれしかない!」
密と亘理は必死で説得しました。
都筑は動揺しました。
(巽さんを殺す? そんなことできない。でも、巽さんの妻になれなかったら
邑輝の妻になるしかないのだ。それも嫌だ。どうしよう! どうしよう!
いままでどうりの人魚の生活。人魚は不老不死……。人魚は……)
都筑は渡された剣をギュッと握りました。
「都筑、必ず還ってくるんやで〜」
密と亘理は深い海に消えました。
浜辺から巽のいる王宮にもどりました。
「あっ、都筑さん。結婚式の準備を少し手伝ってくれませんか? 厨房係りです。
残ったデザートはすべて食べてもいいですよ」
巽はいつものやさしい笑顔でした。
「アップルパイにシュークリーム、クッキーに、ケーキ。たくさんありますよ」
巽のやさしさが心に痛い都筑でした。ポロポロと涙が頬を伝わりました。
「ど、どうしたんですか? 都筑さん。急に泣き出して。私が何かしましたか?
何が悲しんですか?」
都筑の涙に巽はオロオロとしました。
「喋れないないから、何が悲しいのか分からないな。困ったな」
首をかしげて眉間に皺をよせました。すごく困っています。
都筑はヒクヒクと涙が止まりません。このときだけは声の出ない自分をありがたく思いました。
声なんか出たら、この悲しみをすべて巽さんに暴露してしまうかもしれないからです。
それだけはできません、してはいけないのです。自分は人魚なのですから。
「都筑さん、アップルパイは甘くておいしいですよ。たくさん食べなさい」
巽は都筑をなぐさめようとずっと心配そうにしています。
結婚式当日。都筑は密に渡された剣を手にしました。
自分の寝室を出て王宮のすぐ近くにある浜辺までいきました。浜辺からは盛大に行なわれている
結婚式の様子がよくわかりました。たくさんのご馳走。たくさんの婚礼を祝う人々。
にぎやかな声が広い浜辺に拡散していました。
都筑は剣を両手に持ちました。巽をじっと見つめます。見つめているうちに紫の瞳は
涙でいっぱいになり、視界が歪みました。歪んだ視界からは、屈折率の悪いレンズで見た
ぼやけた世界が広がりました。
剣を高く挙げ巽の方に向けました。そしてその剣を―――
180度の弧を描き、自分の胸に剣を突き刺しました。
胸からは血が流れ出ました。
都筑は声だけでなく、その生命も失ってしまったのです。
王宮からは幸せそうなざわめきが聞こえてきます。
楽しそうな声が広い浜辺に、広い空に、広い海に拡散するように、都筑の魂も拡散していきました。
都筑には巽を殺すことなどできなかったのです。
巽の妻になれなくてもいい。側に一緒にいられるだけで充分だったのです。
しかし、そうはうまくいきません。邑輝に無理を言って二本の足をもらったのですから……。
巽を殺めることもできない、邑輝のものになることも嫌だ。選ぶべき道はひとつしかなかったのです。
一方、邑輝は都筑の死がとてもショックでした。
ショックのあまり、邑輝は都筑の後を追って自害してしまいました。
妖魔術を操る邑輝。人魚界での厄介者です。
邑輝のいない人魚界はさらに澄み心地のよい平和な世界となりました。
その平和の陰には……。
道ならぬ恋にすべてを注ぎ、青く澄んだ広い空を夢見た都筑の姿があったのです。
おわり
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