夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)

15.逃亡


 エジプト総督として派遣されているアフメットが反旗を翻した。
アフメットは旧エジプトマルムーク朝の残党を味方につけ、カイロに駐屯しているオスマン軍を撃沈させた。
アフメットは皇帝を名乗り、国家創設を宣言したのである。
 イスタンブルの議会ではすぐにエジプトへ討伐軍を送ろうとしたが、
スレイマンは皇帝の名で軍を送らなかった。
理由は大宰相イブラヒムを筆頭とする臣下たちだけで解決することを望んだからだ。
スレイマンはイブラヒムに軍を率いて、皇帝の代わりとなって政務を執れるようになれと告げる。
そのために宮殿に近い場所に屋敷を建て、そこへ妻を迎えろと言った。
 イブラヒムの頭に浮かぶのはヒュッレム。彼女を妻として迎えるためには何でもしようと心に誓う。
 そんな矢先、スレイマンから出た言葉は思いもよらないものだった。

 皇妹ハディージェをイブラヒムに下嫁するというのだ。

 イブラヒムは呆然とする。その報にヒュッレムもアルヴィーゼもハディージェも言葉を失った。
 当事者4人の他に、もう二人言葉を失った人物がいた。
 イブラヒム付きの小姓、ラムセスとメフメトである。
「ど、どうしよう、ラムセス……」
 メフメトが真っ青な顔をしながらラムセスを見つめる。
「どうしようって言ったって……どうにもできるものじゃないだろ。
皇帝の発言は絶対だ。否は認めぬとスレイマン陛下も言っていたではないか……」
「そ、そうですけど……。イブラヒム様とヒュッレム様のお気持ちは……。
ハディージェ様とアルヴィーゼ様も相思相愛のはずですよね」
「確かにな……。だけど、相思相愛だからと言って必ず自分達の望む幸せが手に入るとは限らない。
特に身分の高い人間は難しいものだろう。俺のいた時代からそうだ」
 ラムセスは軽く溜息をつく。
「でも、でも……。イブラヒム様とヒュッレム様のお気持ちを考えると……」
 メフメトは瞳に涙を溜め、今にも泣きだしそうであった。
「とにかく。イブラヒムのショックは相当なものだろう。
それを俺たち小姓が支えないでどうする。行くぞ! メフメト!」
「ま、待ってください。ラムセス!」
 ラムセスはイブラヒムの元へ向かう。メフメトも慌てて彼の後を追った。

***

 アルヴィーゼはイブラヒムの屋敷にいた。
 アルヴィーゼはイブラヒムがさっさとヒュッレムを賜りたいと申し出なかったから、
こういうことになったんだと言っている。あとから冗談だと付け加えていたが、本心であろう。
 そこへ、旧宮殿から女官が訪ねてきているという連絡が入った。
女官というのは、ヒュッレムであった。アルヴィーゼに伝えたいことがあるため、
宦官に心づけを渡して後宮を抜け出してきたのだという。
 伝えたいことというのは、ハディージェのお腹には御子がいるということであった。
 もちろんアルヴィーゼの子である。
 子のことを聞いたアルヴィーゼは、ハディージェを連れて故郷ベネチアに連れて逃げると言い出した。
イブラヒムとヒュッレムも最初驚いた表情をしたが、イブラヒムはアルヴィーゼのために通行証を用意すると言い出した。
 協力すると言ったのだ。
 ラムセスは黙っていられなくなり飛び出す。
「おい、ちょっと待てよ! 皇妹を連れ出すなんて上手くいくわけない。
よく考えてみてくれ、オスマンの皇女さまだぞ。後宮でしか暮らしたことがないんだ。
そんな皇女様が行けるわけがないだろう。例えベネチアへ運よく辿り着いたとしても、
スレイマン陛下が、母后様が黙っている見ているわけがない!」
 ラムセスは説得した。イブラヒム、アルヴィーゼ、ヒュッレムは突然出てきたラムセスを見つめて固まる。
「す、すみません。大変な無礼を致しました! ちょっと、ラムセス。何を急に勝手するんです!」
 メフメトがラムセスの手を引き、部屋の外へ引っ張ってゆく。
「イブラヒム様、突然のラムセスの発言。大変申し訳ありません。私の監督不行き届きです」
 メフメトがイブラヒムに頭を下げる。
「ダメですよ、ラムセス。勝手な事しないでください。まあ、お気持ちはわかりますけど……」
 メフメトはラムセスを連れてイブラヒムたちのる部屋から下がる。
 誰もいない廊下で足を止める
「皇女様をさらって逃亡なんて上手くいくわけないじゃないか! 
イブラヒムも通行証を用意するだなんて……、逃亡に加担したって知れたら首が飛ぶぞ!」
 ラムセスは真剣であった。せっかく大宰相という大きな地位についたイブラヒム。
彼を蹴落とそうとしている者は必ずいるはずだ。そういう者とっての隙となってしまう可能性もあるのだ。
「ラムセスの言う通りですけれど……、イブラヒム様もヒュッレム様を
賜りたいというお気持ちがあるのでしょう……」
 メフメトは俯く。ハディージェを連れての逃亡。万が一上手くいけば、
ヒュッレムを賜るという夢が叶えられるかもしれない。
イブラヒムはその僅かな可能性にかけてしまったのかもしれない。

 3日後、アルヴィーゼの逃亡計画が実行された。
 ラムセスは逃亡が成功するわずかな可能性を祈った。
逃亡が露見すれば、アルヴィーゼはもちろんの事、イブラヒムやヒュッレムの地位も危なくなるかもしれない。
偶然と幸運がいくつも重なって、逃亡が上手くいくことを祈った。
「大変だ! ラムセス!」
 メフメトが息を切らして走ってきた。
「どうした? メフメト?」
「後宮に向かうはずのスレイマン様が、城壁を出て南に向かってるっていうんだ!」
「南? 南ってアルヴィーゼたちが行った、ゲリボルの方向じゃないか!」
「多分……計画がバレたんだ……」
「うっ!」
 ラムセスはオッドアイを瞑る。やはり上手くなんていくわけがなかった。
あの聡明なスレイマンの事だ。こんな計画はお見通しであろう。
もしかしたら、イブラヒムがヒュッレムを賜りたいと思っていることも分かっているのではないだろうか。
そんな考えがラムセスの脳裏をかすめたが、今は考えないことにした。
「ラムセス、僕はイブラヒム様に連絡してくる!」
「わかった。何かできることがあったら言ってくれ、メフメト!」
 
***

 結局、アルヴィーゼとハディージェ皇女の駆け落ちは失敗に終わった。
ハディージェは夜遅く後宮に戻ってきた。
 数日後、メフメトはヒュッレムの元へ使いに出た。
 夜の礼拝後、ヒュッレムにアヤソフィアへ、一人で来てほしいという、イブラヒムの願いを伝えに行ったのだ。
ヒュッレムが一人で来るから、イブラヒムからはアヤソフィアの中には入ってこないようにと命じられた。
だか、ラムセスとメフメトはこっそりついて行った。メフメトがアヤソフィアの中二階に隠し部屋があり、
静かにしていれば見つからないだろうというのだ。メフメトと二人で隠し部屋で待っていた。
 アヤソフィアは大聖堂。広いので、二人の声は聞こえないかもしれないと思っていたが、
天井が高く逆に声がよく響き何を話しているかすべて聞くことができた。
イブラヒムはハディージェを娶り、ヒュッレムとは添い遂げられないと伝えると、ヒュッレムは涙を流した。
 
 叶わぬ恋だったという結論が出てしまった。

 イブラヒムの性格と身分、ヒュッレムの環境からして二人が添い遂げられることは
かなり難しいのではないかと思っていた。だが、こんな風に現実を突きつけられると、
他人事ながらやはりショックだ。当人たちのショックは計り知れないものだろう。
ラムセスは二人を見ていられなくなり、オッドアイを伏せる。
 ふと、隣のメフメトを見るとソバカスの上の瞳に涙をいっぱいにためていた。
(やばい、このままではメフメトが泣き出しまう。ついてきたことがイブラヒムにバレてしまう!)
 そう思い、ラムセスはそっとメフメトの手を引きアヤソフィアを出た。

「ほら、もういいぞ、メフメト。思う存分泣け」
「うっ、うっ……ひっく」
 メフメトは大粒の涙を流し始めた。
「二人は、二人は……どうして想いあっているのに結ばれないんでしょう。ひっく」
「仕方ないだろ。スルタンの寵姫と大宰相だ。無理なものはやっぱり無理なんだ」
 ラムセスは心を鬼にして言う。
「ううっ……ハディージェ様もお心が痛むでしょうね。アルヴィーゼ様もどうなっちゃうんでしょう……」
「ほら、もう泣きやめ。イブラヒムに後をつけていたのがバレるぞ」
 メフメトは袖口で涙を拭う。咳を一つして深呼吸した。
「やはり身分の高い方って、自由な恋愛はできないんですかね」
「そうだな……」
「あ、でも。ラムセスは元の世界では貴族ですよね。
そしていつかファラオになるんだし、ラムセスは好きな人と添い遂げられましたか?」
 まだ涙声のメフメトがラムセスに聞く。
「ははっ、俺の方にきたか。俺はだな〜、好きな女はいたが、
結局は片思いだったから、添い遂げるとかそういう以前の問題だな」
「ええっ! こんなイケメンに傾かない女性がいるんですか! 信じられない!」
 メフメトはラムセスを見つめて驚く。
「まだ俺は現在進行形だけどな。しかし、片思いもつらいなと感じたけど、こういうのもホントに辛いな」
「はい……」
 メフメトはまた瞳を潤ませる。
「人間、自分の思うようにはいかないよな。運命と思って受け入れるしかない……。
苦しいけどそう思うしかないのかもしれないな」
 ラムセスは夜空を見上げる。
 月がモスクのミナレットの隣にあった。
 真っ暗な夜の月の明かりはいつも心が落ち着く光であるが、今日はその明るさが少し眩しすぎた。

***

 大宰相イブラヒムと皇妹ハディージェの結婚式が執り行われた。
 イスタンブル中の民が二人の結婚を祝う。
 テオドシウスのオベリスクのある戦車競技場広場には、
皇帝陛下の信頼の厚い大宰相を一目見たいと思う民たちが集まっていた。
 そんな中、ラムセスとメフメトは浮かない顔で思わず見つめあう。
「みんなのように素直に喜べるか? メフメト」
「喜べるわけないでしょう。お二人の気持ちを知っているのに……」
「そうだよな」
 ラムセスは溜息をつく。メフメトが言ったお二人とは、イブラヒムとヒュッレムのことだ。
二人の想いあう気持ちを知っているのに喜べるわけがない。
 ラムセスとメフメトはもう一度顔を見合わせる。
 二人で「はぁ〜」と同時に溜息をついた。
 華やかな結婚式を祝う音楽と皆の声が、なんだか遠くに聞こえる。
作られた喜びの空間のような気がして……イスタンブルの青い空と
 ボスボラスの蒼い海を見つめるとなんだかラムセスは胸が締め付けられる思いがした。

 婚礼の式典が終わり、落ち着きを取り戻したプカプ宮殿。
 御前会議でスレイマンは、エジプトに討伐軍を送る総司令官をイブラヒムに命じた。
御前会議を裏で聞いていたメフメトは即座にラムセスを見つめる。
「エ、エジプト……」
 ラムセスは驚きのあまり思わず声に出す。
「ラムセス、エジプトですよ、エジプト。イブラヒム様が総司令官で行くということは……」
 メフメトの続きの言葉を聞かなくてもわかる。ロードス島にもイブラヒムの小姓として供をし、
役に立ったと褒められたばかりだ。共として行く可能性はかなり高いであろう。
 自分の生きた世界よりも1000年後の祖国。その土地に足を踏み入れるとどうなるのであろうか?
 ラムセスの頭の中には、今、様々な考えが巡り、鼓動が速くなるのが感じた。
 ラムセスはゴクリと唾を飲み込んだ。



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