天と天河の神隠し
(天河版千と千尋の神隠し)
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7.旅のはじまり、そして……
ハディのタライ舟から降りたユーリは、水の上に浮かぶコンクリートの
プラットホームに着いた。肩にはジュダネズミよハエドリウルヒが乗っていた。
一緒に行って、銭婆婆に魔法を解いてもらうつもりなのだ。
油屋のほうからは、ゆっくりと頼りなげにカオナシラムセスがユーリを追っていた。
一両編成の海面電車がゆるやかな水しぶきをたててプラットフォームに
近づいてきた。行くだけで帰ってくることのない一方通行の電車。
ユーリはタロス釜爺からもらった電車の回数券を、車掌へと手渡した。
車掌が人数を数える、ユーリ、ジュダネズミ、ハエドリウルヒ、そして……
「あれは……」
車掌の指差すほうを振り返ると、やっと追いついたカオナシラムセスが
立っていた。
「あなたも乗りたいの……?」
コクコク。ユーリの問いかけにラムセスは何度も頷いた。
「全部で四人……」
車掌は回数券を4枚シュレッターに入れた。
車内には黒い影のような人物が数人座っていた。カオナシラムセスは
落ち着かないのか、車内をきょろきょろと見回している。
ユーリも落ち着かず、ポールを握って立ったままであったが、
しばらくすると、不安な気持ちを沈めるように、静かに長いすに座った。
カオナシラムセスもユーリに習う。
停車した駅ごとに、黒い影のような人がポツリポツリと降りる。
電車の窓の外はもう暗くなっていた。銭婆婆のいるピラミッドの底は
次の次の駅。車内にはユーリたち以外誰もいなくなっていた。
***
その頃、油屋でボイラー室の布団の中でカイが目を覚ました。
タロスはユーリが銭婆婆の元へ向かったことをカイに告げた。
カイも途切れ途切れの記憶の中で、ユーリの呼ぶ声を覚えていたという。
「ユーリに助けられたな……私も今、私にできることをやらなければ……」
カイは凛々しい表情ですっと立ち上がった。「ありがとう釜爺」と一言かけて、
カイはボイラー室を出て行った。
「いいなぁ、愛の力だなぁ」
カイの背中を見てタロスはポツリと呟いた。
彼の向かったのは、カオナシラムセスのせいで儲けがフイになり、
機嫌の悪いナキア湯婆婆のところ。豪華な部屋には膨れっ面のナキアと
ジュダ坊がお菓子に囲まれていた。
「ああ、カイか……」
ナキアは興味なさそうに彼の名前を呼ぶ。
「ナキア湯婆婆、いいかげんにしてください。名前を奪って人を支配しようなんて
間違っています。どうかユーリを自由に、彼女の家族をもとの姿に戻して
やってください」
「ふん、小僧が生意気言いおって……」
ナキアは不機嫌そうに言うと、ジュダ坊の方へ向かって右手を真横に引いた。
息子を使ってカイをひねり潰そうとしたのだ。
ところが、カイをひねり潰す前に、お菓子を頬張っていたジュダ坊の顔は
頭(かしら)のミッタンナムワの顔に変わった。
いや、元に戻ったと言ったほうが正しいだろうか?
「なぜだぁぁぁぁ! わたくしのジュダがあぁぁぁ!」
息子を奪われたナキアは憤慨。髪を振り乱して、炎を噴いて怒り狂った。
しかしカイは、ナキア湯婆婆の怒りに一歩も動かずに動じない。
カイはジュダ坊を連れて帰る代わりに、ユーリと家族の自由を要求した。
「帰ってから、お前は八つ裂きにされてもいいんだね!」
カイは何も答えずにナキア湯婆婆の部屋を出た。
***
ユーリたちはピラミッドの底駅のプラットフォームに到着した。
パピルスとヤシの木の生えた閑散とした場所だった。薄暗くて気味が悪かったが、
4人はネフェルティティ銭婆婆のいる家へと向かった。
銭婆婆の家は、白い壁に草葺の屋根という小さな質素な家だった。
呆然と玄関の前に立ち尽くしていると、戸がキィィと音を立てて開き、「お入り」と声がした。
ユーリたちを出迎えたのは、ナキア湯婆婆と瓜二つのネフェルティティ銭婆婆。
ナキアと同じ魔女であったが、今のネフェルティティには穏やかな表情が満ちていた。
ユーリは話を切り出そうとしたが、ネフェルティティは「お座り」と言って、
まるで知りあいが訪ねてきたかのようにお茶の用意をはじめた。
ユーリは座れずにうろたえていた。そっとネフェルティティに近づき、
カイの盗んだハンコを差し出した。
「ごめんなさい、これ……。カイを許して欲しいの!」
ユーリは90度のお辞儀をした。カイの代わりにハンコを返しに来たと告げ、
おまけにハンコと一緒に出てきた黒い虫も踏み潰してしまったことを白状した。
「あははははは、その虫はね、ナキアがカイを操るために竜の腹に忍び込ませた
虫じゃよ!」
ネフェルティティ銭婆婆は大臼歯を見せて大きく笑った。
何が何だか理解できないユーリ。とにかくお茶でも飲みなと言われ、
ユーリたちはお茶の用意されているテーブルの前へ座った。
ネフェルティティは、ユーリを責める気も襲う気も全くないようである。
カオナシラムセスはおいしそうにケーキを食べている。
「お前を助けてあげたいけど、両親のことも、ボーイフレンドの竜のことも、
自分でやるしかないねぇ」
紅茶をすすりながら銭場婆は穏やかに言う。
「カイと私はどこかで昔会ったことがあるみたいなの。でも……思い出せないの……」
ユーリはうつむきながら元気のない声で言った。
「一度会ったものは忘れないものさ。思い出せないだけで」
元気づけられたのか何なのかよくわらなかった。
ユーリはお茶が飲み終わった後、これからどうすればいいか
椅子にうずくまり、じっと考えていた。
ジュダネズミとウルヒハエドリの魔法はとっくに解けているはずなのだが、
元の姿に戻る気はないようであった。カオナシと一緒に銭婆婆の編物を手伝っていた。
「ユーリ、みんなで作った髪留めだよ。さあ、これをしてごらん」
銭婆婆は、カオナシとジュダネズミとウルヒハエドリのみんなで作った
赤いゴムひもを手渡した。ユーリはありがとうとお礼を言い、赤いゴムひもで
髪を結わいた。
「ネフェルティティさん、やっぱり私帰るよ。こうしている間に……
カイが死んじゃうかもしれない。豚になった家族が食べられちゃうかもしれないんだ……」
答えの出ない問いに悩むユーリの瞳は潤んでいた。
「お前はきれいな心を持った子だねぇ。意地悪してごめんよ。さあ、もう大丈夫さ」
ネフェルティティ銭婆婆はすべてが分かっているかのような笑みを浮かべた。
その時、外で大きな音がした。
「いい時に来たね。お客さんだよ、出ておくれ」
外にいたのは、心配していたカイであった。竜の姿になってユーリを追ってきてくれたのだ。
「カイ! ケガは? もう大丈夫なの。よかった!」
ユーリはカイの鼻面に顔をこすりつけた。
銭婆婆はカイの盗んだハンコのことはもう咎めないと言った。
カオナシには引き続きここに残るように告げ、カイとユーリを見送った。
「ネフェルティティさん。私の本当の名前は夕梨。鈴木夕梨っていうの」
ユーリは嬉しそうに自分の本当の名前を告げた。ネフェルティティ銭婆婆は
穏やかな笑顔でゆっくりと頷いた。
ユーリは竜のカイにまたがると、風を突き抜けて大空を舞った。
カイと一緒に夜風を突き抜ける中で、ユーリにふとした記憶が蘇った。
――この風に、前にも吹かれたことがある? カイから微かに香るこの香りは……乳香?
次の瞬間、ユーリの脳裏に赤い大地と、青い天(そら)が蘇った。
赤い大地には赤い河が流れ、そのほとりには石の城壁が続く街があった。
街の中央には大きな宮殿があり、2頭の石造の獅子が城門を構えていた。
自分はその獅子の間を掛け抜け、嬉しそうに軽い足取りで宮殿の奥まで入ってゆく。
宮殿の奥には、首からたくさんのアクセサリーをつけた見目の良い凛々しい男性が
立っていた。「ユーリ!」と名前を叫ばれ、自分はその男性に飛びつき、抱きついた。
しっかりと抱擁してくれた大きな胸の中で、その男性のことを「カイル」と呼んでいた。
ユーリは思い出した。自分の前世のこと、いや、これから辿る運命のこと。
自分は三千年の昔に赤い大地に還っていて、愛した人と一緒に眠っているのだ。
ヒッタイト帝国の皇妃としてカイルと共に生きた記憶を甦らせた。
「カイル……。あなたの名前はカイル! 思い出したよ……」
ユーリは竜に告げた。すると、彼女の言葉と共に、竜であるカイの背中のうろこは
花びらのように飛び散り、人間の姿に戻った。
「ああ……!」
宙を舞い、落ちてゆくユーリの腕を人間の姿に戻ったカイの手がしっかりと握り締めた。
「ユーリ、ありがとう。私の名前はカイル=ムルシリ。すべて思い出したよ……」
カイの失われた記憶が甦った――それはナキア湯婆婆に記憶を奪われ、自らも忘れていた
本当の姿。ついにナキアの呪縛は解け、カイルとしての記憶を取り戻したのであった。
8.また会う日まで……
2人の記憶が甦ったと共に、白々と夜が明けてきた。
朝焼けの油屋。いつもだったら皆寝静まっている時間であったが、今日は少々騒がしい。
ナキア湯婆婆は油屋の朱色の橋の前で仁王立ちになって2人を待ち構えていた。
後ろには12頭の豚を引き連れている。
天からゆっくりと降りてきたユーリとカイ。同時にジュダネズミとウルヒハエドリも
降り立ち、2人は元の巨大な赤ん坊と鳥の姿に戻った。
「おお、ジュダや!」
ナキアは巨大な息子に抱きついた。
「ばーばのケチ。もうやめなよ!」
ジュダは母の腕を振り解いた。もちろん、彼もユーリたちの味方である。
息子に裏切られた母はきょとんとする。
ナキアはチラリとカイの方へ視線を向けると、仕方なさそうにユーリに
一枚の契約書を渡した。渡したと言うより、返したと言った方がいいであろうか?
最初にナキアと油屋で働くと約束した契約書である。これでユーリは自由だ。
「さあ、この中から両親と姉妹を見つけな!」
ナキアの後ろに控えていた12頭の豚の中から、家族を見つけるように告げられた。
ユーリはじっと豚を見つめる。数十秒の沈黙の後……
「この中にはお父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、妹もいない」
そうナキア湯婆婆に告げると、契約書はボンっと煙を出して消え、
豚の後ろで控えていたハディをはじめとする湯女や蛙男たちが
「大当たりっー!」
と騒ぎ始めた。
カイルも嬉しそうに笑っている。
「あーあ、ここでも負けたかい。三千年前の古代ヒッタイトで、カイルとユーリ、
お前たち二人に負けたから、ユーリをこの世界に留めて、ヒッタイトに来させないように
と思ったのさ。最後の悪あがきだよ。……行きな、お前の勝ちだよ。早く行っちまいな」
ナキアは悔しそうであったが、その表情のどこかに最初からこうなることが
分かっていたような、あきらめの気持ちが現れていた。
ユーリは深々とナキア湯婆婆にお辞儀をすると、油屋のみんなに手を振って
別れを告げ、来たときと同じ朱色の橋を渡った。
橋のたもとには、カイが待ち受けていた。2人は手を取って飲食店街を進み、
元の世界へと繋がるトンネルのある草原にやってきた。
「私はこの先には行けない。ユーリ、ご家族を大切にね」
「うん」
家族を大切に……カイの言葉は胸にぎゅっと詰まった。これから自分が
どういう運命を辿るか、知っているからだ。
「さあ、元の世界に戻るんだ。トンネルを出るまでは、決して振り向いちゃいけないよ。
わかったね」
カイはユーリの黒い瞳をじっと見つめて言った。
「うん、また会う日まで……」
カイも声を出さずにうんと頷いた。
ユーリは涙が瞳に浮かんできそうになるのをじっとこらえ、カイに
向かって笑顔を作った。
「さあ、行きな。振り向かないで……」
カイに促されて、ユーリは前へと足を踏み出した。
ゆっくりと名残を残して二人の手が離れてゆく。
ユーリは言われたとおりに振り向かずにトンネルに向かってかけていった。
「夕梨っー! 何してるのー。こっちよー!」
母の声が聞こえた。トンネルの前に人間に戻った父と母と姉と妹が
手を振っていたのだ。
「お母さんたち……何ともないの?」
「何ともないって一体何が?」
どうやら家族たちには豚になったときの記憶は全く残っていないようであった。
来たときと同じトンネルを家族5人で歩いていった。
トンネルを抜けてから、ようやく夕梨は後ろを振り返った。
苔むしたトンネルが夕梨の心を惹いた。真っ暗な闇がそこにあるだけであった。
「うわっー、どうして? 車の中が砂だらけ!」
父と母が大きな声で騒ぐ。車は雑草に覆われ、中は砂と埃だらけ。
雑草と砂と埃が夕梨の過ごした時間を感じさせる唯一の証拠であった。
砂と埃をはらって、鈴木家は車に乗った。
後部座席に鞠絵、夕梨、詠美の3姉妹。妹の詠美はすぐ上の姉が、見慣れない
赤いゴムをしていたのに気づく。
「夕ちゃん。このゴムどうしたの? 見慣れないねぇ」
銭婆婆とカオナシラムセスとジュダネズミとウルヒハエドリのみんなで編んだ
赤いゴム。詠美は軽くゴムを引っ張った。
ゴムは簡単にほどけてしまった。パラリと夕梨の髪がほどける。
ほどけたと同時に、夕梨の中のトンネルの向こうであった不思議な出来事も
消え去ってしまった。ナキア湯婆婆のことも、カイのことも、ハディのことも。
しゃぼん玉がプチンと破裂するように、油屋でのことがすべて記憶から
消えてしまったのだ。
「ごめん、夕ちゃん。ゴムほどけちゃった」
詠美は申しわけなさそうに赤いゴムを姉に渡す。
「あれ、私……」
突然、記憶が封印され、夕梨は呆然とする。何が起こったのだろう。
今まで何をしていたのだろう? 思い出そうとしたが、頭の中は真っ白だった。
「ふあ〜あ」
隣で姉の鞠絵が大きなあくびをした。つられて詠美もあくびをした。
「3人とも疲れているのよ。おばあちゃんちに着くまでまだ時間があるから、
少し寝なさい……」
母が娘たちに少し眠るように言った。詠美がコツンと頭を夕梨の肩に
もたれかけた。
夕梨も静かに目をつぶった……。
♪おわり