冷子と雪子
「わたしのほうが役に立つわよ!」 「いいえ、あたしよ!」 顕微鏡も眠る丑三つ時、某病院検査室に周波数の高い声が 響いていた。声の主は4℃に設定されている冷蔵庫の冷子と、 −80℃に設定されている冷凍庫の雪子。 二人とも冷やすことが仕事なだけあって、性格も冷ややかで 冷たい。言葉の節々にトゲがあり、温かい言葉などかけたことが ないと思われる。 「わたしの中にはね、生化学の血清や試薬のほとんどが保存されているのよ。 適度な低温で検体や試薬の保存状態を保つの。検査室にはなくては ならない存在なのよ」 冷子が得意げにツンとして言った。 「あら、検体を保存するって言っても、血清補体価(CH50)の 測定に使う血清なんかは、4℃のアンタに保存すると活性が 下がるじゃない。凍結しなきゃダメなのよっ!」 雪子も冷たさでは負けてはいなかった。 「それは測定物質の保存性の問題で仕方がないことでしょ。 わたしのほうが雪子なんかよりたくさんの検体や試薬を保存しているのよ。 アンタなんかよりこの検査室で役に立っているの!」 「な、何を……、あたしの中には毎日のコントロール測定に使う プール血清が保存してあるのよ。4℃の冷子の中じゃ、長期間の保存は 無理ですからね!」 冷子の言葉に憤慨した雪子は、頭にカッ血がのぼり、設定温度が 2、3℃高くなった。 「凍結っていっても血清を使用するときは、恒温水槽の恒子さんで 溶かさないとすぐに使えないじゃない! 毎日、恒子さんに迷惑が かかっているのよ。いつもすみませんねぇ、恒子さん」 冷子は高齢の恒子婆さんに視線を移し、やさしく謝った。 「いいえ〜」 穏やかな恒子さんはゆっくりと返事をした。 「冷子なんかに謝ってもらいたくないわよ! だいたい冷蔵庫のくせに 生意気なのよ!」 怒りが頂点に達した雪子は冷凍庫の扉を勢いよく開け、雪女のごとく −80℃の冷気を冷子に吹きかけた。 「きゃあああ! 冷たい! 何するのこの冷酷女!」 雪子の吹き付けた−80℃の冷気がシモとなって冷子の体に こびりついた。 「あたしに逆らうとこうなるのよっ! 冷血女!」 「冷血? 私の設定温度は4℃よ。アンタなんかよりずっと温度は 高いわよ!」 霜まみれの冷子は自分の設定温度をアピールする。 「気持ちが冷血だっていっているのよ!」 2台の冷却機器の冷たい戦いはどんどん激しくなるばかり、 同じ検査室にいる遠心分離機の遠粉はすっかり呆れ果てていた。 「冷子も雪子も、冷酷でも冷血でも……、どっちでもいいから 落ち着いて、冷静になってよ。もう、誰か冷蔵庫も冷凍庫も どちらも検査に欠かせない機器だって言ってやってよ!」 遠粉は無意味な県下の仲裁に入る機器を探した。 「いいんだ。ほっとけ! 飽きるまでやらせておけ……」 顕微鏡の顕太郎も呆れて止める気もないようであった。 冷子と雪子の戦いは、寝起きの太陽が地平線に顔を出すまで続いていた。 検査と技術 2003年 7月号コーヒーブレイク掲載 |
う〜ん、よく書いたな、よく考えたなというのが今の感想。
冷蔵庫についてちょっと調べたとき、冷却機器は設定温度の差だけで、
『冷蔵庫』『冷凍庫』という区別はないと人から言われ、
「それじゃ冷子さんと雪子さんが存在しないんですけれど……」
と困った記憶がある^_^;。