顕微鏡の鏡子さん


「どうだ、仕事には慣れたか? 顕次郎」
 ある日の検査室のお昼休み。
検査技師たちが食事に出ていった後の検査室に、
微かな声が響いていた。人間の声ではない。血液標本を検査技師と
一緒に見ている顕微鏡たちの声である。
「はい、末梢血液像はほぼわかるようになりました。
あとは骨髄標本に少しずつ慣れていこうと思います」
 先週、検査室にやってきた新品顕微鏡の顕次郎が、
先輩顕微鏡の顕太郎に丁寧に言った。
「うんうん」
 満足そうに顕太郎はうなずくと、検査室の外から人間の声がした。
 顕微鏡コンビはピタリと黙る。
「修理に出した顕微鏡がやっと直ったよ」
「他の顕微鏡が載っている机の上にとりあえず置いて、
メシでも食いに行こう」
 男性検査技師2人が、検査室に新たなる顕微鏡を運んできた。
顕太郎と顕次郎の間にその顕微鏡を置くと、2人の技師は検査室を出ていった。
「はぁ~い、検査室のみなさん! 元気にしてらしたかしら? 
顕微鏡の鏡子が戻って参リマシタノヨ!」
 技師に運ばれてきた顕微鏡は甲高い声で叫んだ。
 自己紹介のとおり鏡子はこの検査室にある顕微鏡で、
光源ランプの調子が悪くて修理に出されていたのである。
「うわー、うるさいのが帰ってきた!」
 顕太郎は迷惑そうな顔をした。
「どなたです?」
 先週この検査室にやってきたばかりの顕次郎にとって、鏡子は初対面であった。
「検査技師Dさんが、海外に研修へ行ってその土産に
 持って帰ってきた顕微鏡なんだよ。日本語は滅茶苦茶だし、
妙にハイテンションなところがあるから、一緒にいると疲れるんだよ……」
 顕太郎がそこまで説明すると、2台の顕微鏡を甲高い声が遮った。
「まあ! 見慣れない方がいらっしゃるコト!」
「あ……、はじめまして。僕は先週この検査室に入った顕微鏡の顕次郎です」
「はじめへって! 顕次郎。ワタシは鏡子・エリザベス・マリーンドルフですワヨ」
 鏡子は顕次郎にウインクを投げかけた。ウインクを受け取った新米顕微鏡は、
どうしたらよいか戸惑った。それに『はじめへって』とは一体……?
「き、きれいな名前ですね。エリザベス・マリーンドルフさん……」
「どう呼んでくださっても構わないことよ。ここにいるみんなは、
鏡子さんって呼ぶけど、エリザベスでもいいわ。愛称はベスでよいコトヨ」
「はぁ~」
 先輩顕微鏡の言ったとおり、少々理解できないところがある。
これも国境をこえた文化の違いの一種かもしれないと思った。
「おい! エリザブス。何たわけたこと、新米顕微鏡に教えてるんだよ。
今度こそちゃんと働けよ!」
 口の悪い顕太郎は容赦ない言葉を鏡子に吐きかけた。
「きいいいい! ブスとはレディに対して何たるムショク! ハングリーアルヨ!」
 鏡子は接眼レンズから湯気をたてて怒った。
「いいか顕次郎。ムショクは侮辱、ハングリーはアングリーの間違いだぞ」
 顕太郎は後輩に小さな声でアドバイスする。
「ムショクでハングリーでも意味だけはとおりますね。
それに語尾も中国人になっている……」
 顕次郎はますますエリザベスと名乗る顕微鏡がわからなくなった。
「バイリンガルの鏡子さんをバカにしないことね! 末血からマルクまで
鏡子さんの対物レンズにかかれば3発3中ですノヨ!」
「3発3中。数は少ないけど意味はあっているな」
 顕太郎が小さく頷く。
「と、ところで鏡子さん。鏡子さんはどちらの外国からいらっしゃったんですか?」
 新米顕微鏡は先輩たちを静めようと話題を変えた。
「Oh-! 顕次郎はやさしい顕微鏡ね。ワタシはイスカンダルから来ましたノヨ」
「イスカンダル……」
 そんな国はあっただろうかと顕次郎は数秒考える。
「お前は宇宙戦艦ヤマトかっ! イスカンダルじゃなくてイスラエルだろう!」
「オウ! そうとも言いますネ!」
 今度は顕太郎の接眼レンズから湯気が上がった。
「まあまあ、お二人ともおさえておさえて。鏡子さんの故郷には
ご兄弟はいらっしゃらないんですか?」
 まったくこれまでと関係のない話題だが、出身地の次は、
無難な兄弟姉妹の話題に限ると顕次郎は判断した。
「ワタシの故郷には姉ローゼがいます。蛍光顕微鏡です。
暗闇の中にフルオレッセンイソアオノミネート(FITC;蛍光標識物質)を
きれいに映し出しますノヨ」
「何がイソチアノミネートだ! イソチオシアネートだろうが。
試薬の名前くらいちゃんと覚えやがれ!」
 顕太郎が鋭く突っ込む。
「もう、顕太郎はすぐに怒りやすいんだから」
 鏡子は間違えたことを気にもしないで言葉を返した。
顕太郎もいつものことだと思い呆れてため息をついた。
「お前も相変わらずだよな……」
「まあああああ! 愛変わらずだなんて! やっぱり顕太郎は
ワタシのことが好きだったのね!」
 鏡子は接眼レンズから喜びの湯気を上げてレンズを曇らせた。
「お前の電気回路はどういう構造しているんだよっ! そんなアホなこと
ばかり言っているから壊れるんだよ!」
 顕太郎は息をハアハアと切らせていた。
 逆上した顕微鏡を見た鏡子は、
「OH MY ブッタね!」
 小さく呟いた。
 顕太郎が怒るのも無理はない。顕次郎は2人の会話を呆然として聞いていた。
 これから顕次郎は、口の悪い顕太郎や、エリザベスと名乗る奇妙な顕微鏡と
一緒に仕事をしていかなければならないのである。



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