顕太郎の怖い話



1.真夏の検査室

「暑い! 暑いぞ顕次郎!」
「確かに暑いですねぇ、顕太郎アニキ」
「この暑さなんとかするんだ、顕次郎! 先輩命令だ!」
「無理ですよ、顕微鏡に検査室内の温度を下げるなんてできるわけが
ないでしょう!」
 顕次郎は首を大きく振って不可能を先輩顕微鏡に伝えた。
 8月の夜の検査室。顕太郎たちを使っている検査技師たちは、数時間前に
部屋から姿を消し、照明はもちろんのこと冷房も切られていた。
昼間は人工的に冷やされた空気も、元の温度に戻って検査室内の
温度を上昇させていた。湿気の多いムッとした空気が広がっていたのだ。
防犯のため窓も出入り口も封鎖されており、空気の流れもなく、
それに加えて大型の分析機器たちが微量だが熱気を発してるので、
健康に悪いメディカルサウナのようなであったのだ。
「顕太郎と一緒ならアツサも全然平気ですワヨ!」
 顕微鏡の鏡子が汗をダラダラ流している顕太郎にそっと寄りかかった。
「ダァ! 鏡子、寄るんじゃねぇ。暑いじゃないか!」
「そんな、顕太郎ってばテレなくてもいいのに……」
「照れてなんてない! 本当に俺は暑いんだ!」
 顕太郎は鏡子が巻きつけた電源コードを振り払う。
「本当に暑いわよねぇ、私は温度設定を冷却モードにしちゃおうっと」
 かわいらしい声で言ったのは、遠心分離機の遠子であった。
遠心機の温度設定を、凝固検査の検体などを遠心するときの
低めの温度に設定したのだ。
「ずるいぞ、遠子、お前一人涼しくなって。俺も入れろ」
「いやあぁぁ〜何するのやめて。きゃあ〜!」
 遠心機の中に無理やり顕微鏡本体を突っ込む顕太郎。遠子は悲鳴を上げる。
「無理ですよ、遠心機の中に顕微鏡が入れるわけないでしょう
遠子さんがかわいそうです」
 顕太郎はちぇっと言いながら、遠子の中に入るのをやめた。
「冷蔵庫の冷子さんや冷凍庫の凍子さんはいいですね。こんな暑い夜でも
涼しいんですから……」
 顕次郎は、何の文句も言わずに涼しそうな顔をしている冷子と凍子に
言葉をかけた。
「そうだ、冷子に凍子、お前達がいたんじゃないか! 冷蔵庫の扉を開けて
部屋の中を冷やせ。そぉ〜れ!」
 顕太郎は2台の冷却機器の扉を無理やり開けて、冷気を検査室内に逃がした。
「おお、涼しい」
「涼しいですね」
 ――バタン、冷蔵庫の扉が閉まった。冷子と凍子が故意に閉めたのだ。
「ちょっと、あたしたちはあんたたち機器を冷やすためにあるんじゃないのよ」
「いいじゃないかよ、冷子に遠子。お前達ばかり涼しい思いをしてずるいぞ!」
「わたしたちは検体や試薬を冷やすためにあるの! 検体が腐ったら
どうするのよっ!」
「固いこと言うなよ、少しくらい開けてくれたって……」
 顕太郎はまた無理やり冷子たちの扉を開けようと扉のノブに手をかける。
「いやよっ!」
 冷子、凍子同時に声を上げる。
「ええい、この雪女! 扉を開けやがれ!」
「誰が雪女ですってぇ〜、妖怪と一緒にしないでよっ!」
「雪女が嫌なら、雪山のツキノワグマでも白クマでも何でもいいわい!」
「ツキノワグマですって! 白ウサギくらいに例えてよねっ!」
「業務用大型冷蔵庫のくせに何がウサギだ! ツキノワグマがお似合いだぜ!」
「きいいいいい!」
 冷子の凍子も、怒りのあまり設定温度が20℃ほど上がってしまったようだ。
「顕太郎アニキ、冷子さん、凍子さん。やめて下さい……」
 このままでは2台の冷却機器の中に入っている検体と試薬が危ないと、顕次郎は
慌てて止めに入った。だが顕次郎の小さな声など3つの機器の耳には届いてもいない
ようであった。
「おやめなさい!」
 落ち着いた声が検査室に響いた。声の主は検査室最長老の恒温水槽の恒子さんであった。
「夏は暑いのは当たり前。明け方になれば涼しくなります。じっと耐えるのです」
 恒子さんは静かに検査機器たちに言った。年長者の言うことには
さすがの顕太郎も一目置いたようだ。
「そうですよ。喧嘩なんてしたらより暑くなってしまうだけです。やめましょうよ」
 とりあえずこの場は収まったと顕次郎は安堵した。
 しばらくの沈黙が検査室を包んだ。その沈黙を破ったのは喧嘩の主催者
顕太郎であった。
「……でも、暑いものは暑いじゃないか! なんとかしたいと思わないか?」
 冷子や凍子たちと喧嘩していときよりも随分小さな落ち着いた声であった。
「確かに暑いですけど……そうだ! アニキ、怖い話なんてどうでしょう。
夏にピッタリの怪談話をすればちょっとは涼しくなるかもしれませんよ!」
「怪談か……いい案だな、顕次郎。夜も更けてるし、怪談にはピッタリだよな。
ここは『顕太郎の怖い話』というタイトルをつけて、怪談話といこうじゃないか!」
 他の分析機器たちもうんうんと首を縦に振っていた。乗り気のようであったのだ。
「きゃー、カイダン話ですって! 鏡子怖いデスワヨ!」
 顕微鏡の鏡子が顕太郎に抱きついた。
「まだ話しも初めてないぞ! 抱きつくな鏡子、暑い!」
 顕微鏡の顕太郎、真夏の夜の怖い話。パソコンの前のあなたも
もしかしたらちょっと涼しくなるかも?(笑)




2.顕太郎の怖い話

「まずは院長室の話」
 顕次郎、鏡子、遠心分離機の遠子、傘男、恒温水槽の恒子が
顕太郎を囲み輪になった。冷子と凍子も所定の位置から耳を傾けて聞いていた。
「院長室には歴代の院長の写真が飾ってある。昼間はただの写真だが、
夜中の12時になると……」
「どうなるのかしら? ドキドキ」
 遠子が面白さ半分怖さ半分で胸を高鳴らす。
「病院を建てた初代院長の写真に異変が起こるんだ。初代院長は
ハゲ頭だった。そのハゲ頭から、な、なんと! いっぽ〜ん、にほ〜んと
毛が生えてくるのだっ!」
「きゃあああああ! 顕太郎怖いィ!」
「抱きつくなって言っただろう、鏡子!」
 鏡子がすかさず顕太郎に抱きつく。
「……あんまり怖くないんだけど」
「そうよね、怖くないわよね」
 2台の雪女が抑揚のない声でいった。
「う〜ん、いっぽ〜ん、にほ〜んと毛が生えてくる写真を想像すると
ちょっと怖い……かな?」
 先輩をフォローすることを忘れない顕次郎。部下の鏡である(意味不明)。
「そうか、あんまり怖くないか。引っ付くな鏡子! 
じゃあ次の話だ。これは医学部院生のG子が本当に経験した話だ。
ある真夏の夜。院生のG子は実験のため帰るのが遅くなってしまった。
時計の針は11時をまわり夕飯も食べていなかったけど、すぐに帰らなくては
電車がなくなってしまうため急いで駅に向かった。
建物を出たところで、G子はロッカーに定期を忘れたことを思い出した。
定期がなくては帰れないのでG子は急いで研究室に戻った。
定期を持って研究室から建物の出口までは長い廊下が続いている。
G子は闇に包まれた廊下を小走りで走っていた。すると、後ろからタッタッタと
いう軽やかな足音が聞こえてきた。スニーカーで廊下を軽やかにマラソンを
しているような足音だ。恐る恐る振りかえると、真っ赤な人がG子のほうへ
向かってかけてきたのだ。驚きのあまりG子は声も出ない。
真横を通ったとき、目があった。なんとその真っ赤な人物は……
小、中学校の理科の実験室なんかにある、等身大の筋肉の模型だったのだ! 
真っ赤に見えたのは筋肉そのもので、ピンと背筋を張って軽やかに廊下を
走っていたのだ。筋肉模型は出口に近づいた所で回れ右をした。
再びG子のほうへ向かって走ってくる。今度はなぜか真っ赤だった体が白っぽく見えた。
G子の真横を通り過ぎたときなんと今度はガイコツの模型に変身していたのだ。
模型は長い廊下をやはり軽やかに走り抜け研究室に姿を消してった。
そのあとG子は恐怖に悲鳴を上げながら研究室を後にし、駅まで休むことなく
走っていったという。おかげで終電には間に合ったらしい。めでたしめでたし」
「きゃあああああ! 顕太郎怖いィ!」
「暑い。抱きつくなって言っただろう、鏡子!」
 鏡子がまたまた顕太郎に抱きつく。
「う〜ん、ちょっと怖いような怖くないような……」
 と、遠心分離機の遠子。
「やっぱり全然怖くないわよねぇ」
 冷却機器2台の意見。
「せ、先輩、もう一つくらいあるでしょう。最後に思いっきりこわーい話聞かせてください!」
 顕次郎がすかさず先輩をフォローする。
「よ、よし! 今度は怖いぞ! タイトルは『歯磨きのハナコさん』」
「う〜ん、またギャグの予感が……」
「何か言ったか? 顕次郎」
「いいえ、何も。続けてください」
「よし、コホン。ハナコという婆さんが、とある病棟に入院していた。
婆さんは歯磨きが大好きで、朝昼晩の後はもちろん、それ以外にも
1時間おきに歯磨きをしていたんだ。いつみても歯磨きをしていので、
婆さんについたあだ名は『歯磨きのハナコさん』」
「それで?どうしたの?」
 遠子が首をかしげる。
「この婆さん、とある病気を患っていて病室のベッドに寝たきりになってしまった。
寝たきりではもちろん一時間おきに歯磨きなんてできない。婆さんはベッドで
『歯磨きがしたい。歯磨きがしたい』とうわ言をいっていた。
――が、結局それから病状は回復せず、そのまま還らぬ人となってしまった」
「そ、それから?」
 これはさっきより怖い予感がしそうだ。そう思った顕次郎は先輩顕微鏡の方へ少々身を乗り出した。
「それからというもの……その病棟の共同洗面所では、夜な夜な歯磨きをする
『シャコシャコ』という音が響きわたった。誰かいるのかと、
夜勤の看護婦が覗くと天国に行ったはずの歯磨きのハナコさんが一生懸命歯磨きを
しているのだ! ハナコの顔を見た看護婦は悲鳴を上げた
なぜなら……ハナコは口から血を流していたからだ」
「血……?」
 顕次郎一同は少し背筋がゾットしたのを覚えた。
「ハナコ婆さんは言った――『入れ歯しないで歯磨きしちゃったわ〜。実はあたし、
歯磨きの歯無子さんなのよ〜!』と……」

「………………」

 顕太郎を抜かした機器たちの間にしばらくの沈黙があった。
沈黙を破ったのは、短気な冷蔵庫の冷子であった。
「どこが怪談なのよっ! 歯磨きの歯無子さん? 単なるダジャレじゃないの。
全然怖くないわよっ!」
「そ、そうか?」
「そうですねぇ〜あんまり怖くないですねぇ」
 顕次郎も期待した自分が間違いだったと悟った。
「先週亡くなったはずの患者さんが夜中トイレですれ違ったとか、
鏡に病院の創立者の顔が映ってたとかなら、ちょっとは怖いけど、
ハナコさんなんて怖くないわよ。まったく、真剣に聞いて損しちゃったわ」
 顕太郎の話に無駄な時間を裂いてしまったと、雪女2人をはじめみんな呆れていた。
「鏡に顔が映ってた。いいなそれ、今度からそれを使おう!」
「使うって……何にですか……?」
 顕次郎はうさんくさそうに顕太郎を見た。
「鏡子、お前はどうだ。歯磨きのハナコさん怖かったか?」
「きゃあああああ! 顕太郎怖いィ!」
「うんうん、暑いけどたまには愛い奴じゃ!」
 
 検査室の暑い夏。暑さに耐えているのは人間だけじゃないと、
顕太郎からの隠れたメッセージがこの話にはこめられている……らしい。
(一体何処に!どういうシメかたなんだ!爆)


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