***闇末版こころ***
キャスト
書生:黒崎密
先生:巽征一郎
奥さん(お嬢さん):都筑麻人
奥さん:ワトソン
K:M(←誰でしょう?爆)
1.巽さんと俺
その人の名前は巽さんと言った。名前は征一郎。これ以上、巽さんのプライバシーに
ついて語るのはやめておく。俺はすごく巽さんを尊敬しているからだ。
巽さんと出会ったのは日差しの強い夏の夕暮れであった。ちょうど夏休みで田舎の別荘に
きていたときのことだった。都会の雑踏の空気とは比べものにならない新鮮な空気が
俺の肺に入ってくる。体の底から洗われるような澄んだ空気は、よどんだ脳細胞を活発にし、
嫌なことも何もかも忘れさせ、すがすがしい気持ちにさせた。そんな田舎の茶屋に巽さんはいたのだ。
和菓子をつまみ、ズズズと静かにお茶をすすりながら書物を読んでいた。
年は40代から50代くらいであろうか? 若いときはさぞもてたであろう思われる端正のとれた顔立ち。
キラリと光る眼鏡が利発さを漂わせている。顔は全く動かさずに視線の先だけが、
きれいに整列した兵隊のような文字達を追っている。
一目で俺は巽さんに惹きつけられてしまった。他の人とは違った何かを秘めているように
思えたのだ。
初対面だったけど、そんな巽さんに話しかけられずにはいられなかった。
「すみません。お隣いいですか?」と相席を願い、聞かれもしないのに、色々なことを巽さんに話し出した。
今通っている死神学校のこと。将来は行場を失った魂を導く職につきたいと言うこと。家のこと、両親のこと。
自分が今までどうやって生きてきたかということ…。巽さんに聞いてもらいたくて仕方なかった。
「何故、初対面の俺にそんなことを話すのです?」そう巽さんからも訪ねられた。
俺は素直に「わからない」と言った。わかないけど、惹き付けられるものがあるのだとも言った。
「そうですか」とさっぱり巽さんは言い、
「どうです? 学生さん。私の家に来ませんか? 私も元は閻魔庁の秘書をしていた身です。
あなたの役に立ちそうな書物がたくさんありますよ」
俺は巽さんに案内されるがまま、喜んで家へ上がりこんだ。
それから俺は、暇があると巽さんの家へ行った。雨の日も風の日も。
巽さんと話ができるのが大変嬉しかったのだ。
巽さんは静かな人だった。落ち着いていると言ってもいいだろう。
この世の全てのものを悟っているかのようにも感じられた。
巽さんには奥さんがいた。紫の瞳にやわらかそうな黒髪が印象的な奥さんだ。おっとりした人で、
甘い物が大好きな人であった。よく俺は奥さんお手製のアップルパイをご馳走になった。
まずかったけど、奥さんに嫌われては二度と巽さんの家の敷居はまたげないと思い我慢して食べた。
巽さんは毎日奥さんの手料理を食べているのだと思うと、それも尊敬に値する。
改めて巽さんはすごい人なのだと思う。
俺は奥さんにご馳走になる前に差入れを持っていき、なんとか手料理を食べないよう工夫をした。
その日は奥さんの大好きなアップルパイを持って行った。
「いつもおいしそうなお菓子をありがとう。でも、あなたも変わった方ね。
どうしてうちに…いえ、夫にそんなに懇親になるのかしら?」
紫の瞳は俺の緑色の瞳を真っ直ぐみつめていた。不思議そうな瞬きを紫の瞳は放っている。
「それは奥さん! あなたと同じようなものですよ」
「まあ!」
奥さんはカラカラと顔を赤らめながら笑った。
「奥さん、一つ聞きたいことがあるのですが…」
「なあに?」
「巽さんは働いていらっしゃらないのですか? いつも家にいるようなのですが…」
聞いてはいけないことかも知れぬと100も承知で奥さんに尋ねた。
「ええ、今は働いていません。もう、晩秋だとか言って…。まだまだそんな年ではないのに
働くのをここ2,3年止めてしまったのです。でも、ご覧なっても分かるように、
生活には困っていません。私達には子もいませんし…、夫と私が毎日食べるくらいの蓄えはありますの」
「はあ…そうですか…」
奥さんはゆったりした笑顔で俺に話した。
「もうひとつ…、巽さんは毎日、夕方になると出かけますよね。小一時間もすると
帰ってくるようですが…あれは一体どちらに行かれているんです?」
奥さんの顔色が変わった。俺は聞いてはいけないことを聞いたのだと、一瞬にして悟った。
しばらくして奥さんは静かに話し出した。
「あれはね…、私から聞いたって言わないでくれる? 夫が毎日、あの時間に出かけるのは
今始まったことじゃないの。結婚してからずっとなのよ」
「結婚してから?!」
「そう、詳しく言うと結婚前からなんだけどね。友人のお墓参りに行ってるのよ。
夫もね。昔はあんなんじゃなかったのよ。今は自分の殻に閉じこもって、他との交流を絶っている
ように見えるけど、昔はもっと活発で、誰とも話して、それは素敵な人だったの」
奥さんは目線を下に向け、悲しそうな顔をした。
「友人のお墓参りに…毎日、巽さんは行かれているのですか?」
「そう、確かに仲のいいお友達だったわ。でも、もう30年近く経ってるのよ。
いくらそのお友達が…いえ、これは言っちゃいけないことかしら?」
奥さんはハッと思ったのか、急に口をつぐんだ。
「そのお友達がどうしたのです? 言えないことなのでしょうか?」
「いえ…実はそのお友達は…変死したんです」
奥さんは声を小さくして俺に言った。
「そのお友達が亡くなってしまってからなの。夫が変わったのは…。いくら変死したからといって…、
30年も引きずるもんじゃないわ。第一、友人が一人亡くなったくらいで、それも30年近く
たってるのに、こんなにも引きずるものかしら? 今までいくら考えても分からないし、
かといって、私をとても大切にしてくれるから、なんとんなくききにくいし……」
奥さんの紫の瞳が悲しそうな色に見えた。
「そうですか…」
奥さんのいうとおり、巽さんは確かに変わった人だった。平生、奥さん以外に会話をする人は
巽さんにはいない。雇われている下女と必要なことだけ、会話を交わす程度だった。
時間のあるときには、部屋に閉じこもって書物を読み、静かに暮らしている人だった。
書物を沢山読んでいるせいか、巽さんは大変、頭のよい人だった。知識も技術も発想も、
常人以上にあったと思う。だがその知識も世に出すこともなく、役立てることもなく、
ひっそりと家で暮らしていた。まるで、世を忍ぶように…。謙虚なのか、遠慮深いのか、
なんなのか……。俺には全く分からなかった。
しかし―――
俺には巽さんを尊敬せずにはいられなかったのだ。
俺はどうしても気になって、墓参りに行く巽さんのあとをつけたことがあった。
墓は町外れにあった。思えば最初に茶屋で巽さんに会ったときは、巽さんは墓参りの帰り
だったのだろう。
そっとつけたつもりだったが、すぐに巽さんにバレてしまった。
「何をしているのです?」と聞かれた俺は、嘘のつけない性格だったので、
しどろもどろになってしまった。
「妻に、俺が毎日どこへ、何の為にいくか聞いたのですね」
「は…い…」
俺は申し訳なさそうに答えた。
「まあ、いいでしょう」
巽さんと俺は、いつものとおり取留めのない話をしながら家へ帰った。
その晩、巽さんの家で夕げをご馳走になった。奥さんの手料理だったら理由をつけて帰ろうと
思ったが、その日は下女がつくった夕げであった。
食事中、急に巽さんは、奥さんに向かって言い出した。
「都筑さん、私が死んだら、この家をあなたにあげましょう」
巽さんは茶碗に箸を置き、奥さんの顔は見ずに視線を落とした。
「またまた死ぬだなんて…、ご冗談を…。第一どちらが先に死ぬかなんてわからないことでしょう」
「そうですよ、巽さん。人の寿命はわかりませんよ」
俺も奥さんも、巽さんの言ったことは冗談として受けとめていた。
だから、ニコニコ笑いながら返事をした。
現に、巽さんも冗談半分で話しているようだ。
「家だけでなくて、私の持っているものはすべてやろう」
「あなたの持っている本なんか読めませんもの。いりませんわ」
「古本屋に売れば金になるさ。そのお金で大好きなアップルパイをたくさん買うといい」
やさしそうに奥さんに笑いかけた。
「それもいいかもしれない」
奥さんはヨダレを拭きながら嬉しそうに笑った。
後になって、巽さんがどうしてこのとき、「死」という言葉を出したのかが分かった。
奥さんもきっとこのときの会話が後になって分かる会話だったと、想像もしていなかったことだろう。
「巽さん、もう夏も終わりです。俺は都会の学校に帰らなければなりません。
今までのように毎日は巽さんに会いに来ることはできません。俺はそれをとても残念に思います。
どうか…手紙を書くので…受け取ってください」
「いいでしょう。あなたが手紙を下されば、私はそれを受け取り、読ませていただきます。
ただ……、すぐに返事が書けるというわけにはいきません。それでもいいですか?」
「はい! もちろんです!」
俺は、巽さんと奥さんに見送られて、都会に帰った。奥さんも「またいらしてね」と
やさしく俺に言ってくれた。
2.俺と学校
夏休みが終わり学校に戻った。やはり田舎の空気はいい。巽さんのいるあの田舎で
勉強ができたらさぞ脳細胞も活発に動くだろうと思われる。田舎よりずっと暖まったよどんだ
空気に嫌気がさしていた。嫌だけれども、俺の生活する場所は学校である。
学校を卒業しなくては死神にもなれない。ここは通らなければいけない道なのである。
巽さんに約束したように俺は何通も手紙を書いた。しかし、巽さんの言ったとおり、
返事はなかなか来なかった。返事のこないのに、手紙を書くとは寂しいものだ。それでも俺は手紙を書いた。
数ヶ月後、ポストを開けると分厚い手紙が来ていた。封筒の裏には「巽征一郎」と書いてあった。
(巽さんからの返事がとうとうきた!)
嬉しくなって、玄関に靴を脱ぎ捨てて自分の部屋に走って行った。
ペーパーナイフで丁寧に封筒を切ると、中から何十枚あるだろうと思われれる便箋の束が
でてきた。やっときた返事だ。何が書いてあるのだろう? と思いドキドキしながら便箋を広げた。
と、そのときである。
「きゃああああ」
叫び声が家に響き渡った。
「誰か! 誰かきてぇ!」
母親の声だ。俺は急いで部屋を出た。助けをよんでいるのにかけつけないわけにはいかない。
母のもとに駆けつけている数十秒の間…便箋を開けたときにふと目に入った一行が
俺の頭にこびり付いていた。
「この手紙をあなたが手にしているとき、私はこの世にいないでしょう。既に死んでいるでしょう」
この一行が私の頭を大きく揺さぶっていたのだった。
結局悲鳴の原因はなんとも下らないものであった。
飲みすぎた父が急にヘソ踊りははじめ、パンツまで脱ぎ出そうとした父に驚いた母が
悲鳴をあげただけだったのだ。この重大なときにやめてほしい。俺はすぐに部屋に戻って、
ベッドに座りゆっくりと便箋を広げた。
3.巽さんと遺書
私はあなたから、何通かの手紙を頂きました。何度か返事は書こうと思いました。
けど、そう簡単には返事を書く気にはなれまでんせした。あなたもさぞ、イライラしたことでしょう。
この手紙をあなたが手にしているとき、私はこの世にいないでしょう。既に死んでいるでしょう。
びっくりなされることとは思いますが、私にはこうすることしか出来なかったのです。
私の過去を償うにはこうするしかなかったのです。あなたも妻も…、私がどうしてこのような
人間になってしまったか、不思議にお思いでしたね。私は誰にも話さずにひっそりと
この世を去るつもりでした。もちろん妻にも話さずに…。でも、あなたには聞いて
頂いてもいいような気がします。
これはまだ私が学生の頃のことです。大学に行っていたときの事なのです。
私は学生のとき、一度に両親を亡くしました。伝染病です。その当時は今のように
医学は発展していなかったのでよいワクチンがなかったのです。私も両親と一緒に住んでいたので、
この病気にかかりました。けど、私の場合、軽い症状で済んだのです。病状も回復してから、
両親の葬儀が出されました。
まだ未成年だった私は、伯父に引き取られることになりました。その伯父のところから、
今までどうり、学校に通うことも出来ました。
伯父の家はそれはそれは大きい家でした。ロウソクの館と言われ、人々の寿命を管理している
屋敷でした。四季折々色とりどりの花は美しく咲き、新しく生活するようになった私を歓迎してくれるかのようでした。
恵まれた環境……と思いきやそうではありませんでした。伯父が変態だったのです。
いつも変な仮面をつけていました。衣装も変です。行動は更に変でした。
私は伯父のことを「伯爵」と呼ばなければいけませんでした。
居候の身なのでしばらくの間は我慢していましたが、限界が来ました。
自分まで変態になってしまうのではないかと恐くなり、私は伯父の家を出る決心をしました。
伯父の家を出て、どこか下宿しようと思いました。しかし、なかなかいい下宿先が見つかりません。
お金はあるにはありましたが、なるだけ安く下宿したいと思っていたからです。
大学の上の大学院にも私は行きたいと思っていました。だから、なるだけ出費を抑えたかったのです。
あるとき、ある茶屋の主人から『素人下宿はどうかね?』と聞かれました。
「素人下宿?」
「そう、ちょうどうちによく来るお客さんでね、下宿人を探している人がいるんですよ」
茶屋の主人の話はこうでした。
それはある軍人の家族…、いえ遺族の家だと言うのです。なんでもその軍人は戦争で
帰らぬ人になってしまったそうです。もとから、高級軍人の家だったので、広い家だったそうです。
無人で寂しくて困るから、誰か気のいい学生さんかなにかがいたら紹介して欲しいとのことでした。
その家には未亡人とその一人娘がいるだけでした。私は茶屋の主人に紹介してもらい、
未亡人と面接をして、このもと軍人の屋敷に下宿することになったのです。
***
未亡人は、伯父に負けないくらい見かけはかなりヤバイ人でした。ゾンビのような人だったのです。
名前はワトソンと言います。私は始めこの下宿を断ろうかと思いました。
しかし、人は見た目で判断してはいけないとここで悟ることができました。ゾンビでしたがワトソンさんは
とても気のきく良い人だったのです。性格も伯父なんかよりずっとましです。いい人でした。
ワトソンさんは、軍人である夫が亡くなってから、娘一人と身の回りの世話をする侍女一人で、
この広い家に住んでいました。私は奥さんから8畳の和室を自分の部屋用に貰いました。
風呂やはばかり等は、もちろん共同です。食事はワトソンさんやお嬢さんたちと一緒に
膳を並べることになりました。
一人暮しの男にとって一緒に食事を出来る人がいるとは、とても嬉しいものでした。
少し学校からは遠くなったけれども、生活には困りませんでした。
遅くまで本を読んでいても、広い家だったので光りは漏れてもワトソンさんの眠りの妨げには
ならないし、なによりも伯父の家にいたときよりずっといごごちの良い場所でした。
私のいごごちが良いと感じた原因は、衣食住の生活だけではありません。
自分でも初めは気づかなかったのですが、ワトソンさんの一人娘、お嬢さんの存在が
私のいごごちの良さをよりいっそう高めたのです。
お嬢さんのことは、最初会ったときは何も感じませんでした。高校に通うなんの
見栄えもしない女だと私は感じました。もとから私は、書物にばかり興味を寄せ、
あまり女というものに、興味はありませんでした。だからお嬢さんも、私にとって
例外ではありませんでした。
お嬢さんは元気のよい人でした。私が帰ってくると必ず元気に、「お帰り」と声をかけ、
しばし、うるさいと思うときもありました。下宿の身なので、あまり顔に出さないようにと
心がけたつもりなのですがお嬢さんは、私が本を読んでいるときには、
あまりはしゃがなくなりました。静かに私の部屋を覗いて「お勉強? 頑張ってね」
と声をかけるのです。
数ヶ月経つと、下宿した当初より色々と、ワトソンさんともお嬢さんとも話しが出来るように
なりました。ワトソンさんの印象は、初めと変わりませんでした。テキパキと家事をこなし、
とてもよくしてくれました。しかし、お嬢さんは私の第一印象と違いました。
由緒正しい軍人の家で育ったお嬢様のせいかとても甘えん坊でした。
初めはそれがうっとおしいと感じたのですが、だんだん、いとおしくなってしまったのです。
おいしそうにアップルパイを頬張る表情も天使のように思えました。
私は心を惹かれました。お嬢さんの紫い瞳も、出会った当初より、澄んでいるようにも思いました。
こうして私はお嬢さんに心を寄せて行ったのです。
お嬢さんに心をどんどん捕らわれていく中、私はこの下宿にもう一人男を住まわせなければ
ならなくなりました。
その男が、この家の家族の一員となった結果、私の運命は非常に変化していくことになったのです。
***
その男は、私の幼い頃からの友人でした。その友達の名をここではMと呼んでおきましょう。
Mは、私の幼馴染でした。幼稚園のころから、ずっと一緒に育ってきたのです。Mの家は医者でした。
彼は一人息子です。私とMは良き友人であり、よきライバルでもありました。
ところがあるとき、Mの父が亡くなってしまったのです。Mの家に男はMのみとなりました。
Mはすぐに実家の医者を継ぐように言われました。Mの実家は耳鼻科でした。
医者になるのはいい。しかしMは解剖医になりたかったのです。それは私もずっと前から
知っていました。同じ医者ですが耳鼻科では畑違いです。
Mは家を飛び出しました。解剖医になる夢を捨てきれなくて……。
家を飛び出した彼にとって、どこにも行く宛てはありません。Mは「自分でなんとかする」と
言っていましたが私は彼を放っておくわけには行きませんでした。
初めは気の進まなかったMですが、「試しに一週間だけ住んで見ろ」との私の言葉に乗せられて、
ワトソンさんの下宿に身を置くようになり、彼はそのままこの家族の一員となりました。
新しい男が入って来たからと言って、お嬢さんに対する気持ちは何に変化も私には
ありませんでした。Mは堅物な男です。また、風変わりな男でもあったのです。
年頃の娘と色恋沙汰など、彼には到底似合わないもののように思えたからです。
風変わりを象徴するように、彼は毎日怪しい解剖の本を読んでいました。
杉田玄白の翻訳した解体新書は彼のバイブルです。
また、彼は薔薇の花が大好きでした。とくに紫の花が・……。
「やめろ」という私の言葉も無視して薔薇の花を自分の部屋に持ち込みました。
この気高く、美しく咲く薔薇が自分の一番の恋人だとも言っていました。
Mの部屋に沢山の薔薇の花があるのを見て、「一本くらいお嬢さんにあげたらどうだ?」
と尋ねました。Mは「俺が薔薇を人にあげるときは、薔薇相応の価値のある女じゃないとやらない」
と軽くあしらわれてしまいました。現に私も、Mの薔薇なんて一本も貰ったことはありませんでした。
第一、欲しいとも思いませんでしたが……。
Mはやはり変わり者で、人との交流を避ける男でした。ワトソンさんやお嬢さんにでさえも、
これといって、自分から話しかけることはありませんでした。
私はこのままずっと、Mが自分の殻に閉じこもってしまうのではないかと心配でした。
家族に捨てられ、このまま一人で生きていくわけにはいきません。わたしはMに直接、
「もっと人と交流を持つように」と言いました。想像はしていましたが、もちろんMは私の言葉など
聞こうとしません。仕方なく私は、ワトソンさんやお嬢さんに、暇な時でいいからなるだけMに
話しかけるようにと言ってみました。ワトソンさんやお嬢さんは私の言葉を真に受け、
なるだけ、Mに話しかけていました。Mはうっとおしそうにしているのが分かりました。
暫くたつと…、少し、ほんの少しですがMは変わってきました。ふつうにMを見ているものでは
この変わり具合は分からないと思います。幼少の頃から一緒に育ってきた私だからこそ、
この変化に気づいたのです。
―――その変化とは、私にとってあまり喜ばしいことではありませんでした。
Mはお嬢さんにだけ心を開いたのです。心を開いたとは大袈裟かもしれませんが、
お嬢さんにだけは、一言二言、口を聞くようになったのです。Mは変わりました。
食事のときなどは、今までなかったのにMのほうからお嬢さんに話しかけるようになりました。
私は慌てました。Mがお嬢さんのことを好きになったのでは? またお嬢さんがMに心を
惹かれたのでは? くる日もくる日も眠れぬ夜を過ごしました。
ある日、いつものとおり学校から帰りました。玄関をまたぐと、奥さんの靴はありませんでした。
どこかに出かけているのでしょう。私は靴を脱ぎ家へ上がりました。自分の部屋に行くとき、
Mの部屋の前を通らなければ、自分の部屋には行けませんでした。相変わらず、
Mの部屋は薔薇まみれです。Mの部屋が近づくと薔薇のかおりがツーンと鼻をとおりました。
すると…薔薇の匂いと一緒に、笑い声が聞こえたのです。襖の隙間から、気づかれないように覗くと、
Mとお嬢さんが楽しそうに話しているではありませんか! 私の心臓は高鳴りました。
何を話しているのかは上手く聞き取れません。
次の瞬間―――、私は心臓を薔薇のトゲで刺されたような気持ちになりました。
Mが、薔薇の花を一本折って、お嬢さんにあげたのです。Mが以前、言った言葉を思い出しました。
『薔薇相応の価値のある女じゃないとやらない』
そう言ったことを思い出したのです。Mのお嬢さんに対する気持ちは決定的なものでした。
私もMも同じ人を好きになってしまったのです。どうすればいいのだろう? 考えました。
Mに同じ気持ちだと話すか、お嬢さんに気持ちを打ち明けるか……、
それとも―――
私の頭は混乱し、勉強どころではなくなってきました。
Mの気持ちを知ってから、私はMを観察…いえ、監視するように彼の行動をみはりました。
よく考えてみると、私よりMのほうが勉強もできました。クラスでは同じトップクラスでしたが
Mのほうが少しばかり私より勝っていたのです。そんなちょっとの差なんて、今まで気にしたことは
ありませんでした。容貌も…私より彼のほうがいいような錯覚も起こしてきました。私と同じように眼鏡を
かけていましたが、Mの髪は神秘なる銀色でした。
私はMに自分の気持ちを打ち明けようとしました。けど、なかなかチャンスがつかめませんでした。
あとから思うと、このときチャンスがつかめないのではなくて、Mに打ち明ける勇気がなかった
と言った方が当たってるかもしれません。
そんなある日。Mからちょっと散歩に行かないかと誘われました。私から誘うことはあっても
Mから誘うことは滅多にありません。二つ返事でいいと言いました。
学校の話など、気にもならない話をしていると、Mはお嬢さんの話に話題を傾けました。
このときの私にとって、お嬢さんの話をMの口からされるとは、とても心苦しいものでした。
早くこの話題を切り替えようと思い、話を他の方向に持って行っても、すぐにお嬢さんの話題にMは
戻してしまいます。私はイライラ…いえ、ハラハラしました。
もしかしたらこのままMは、自分のお嬢さんに対する気持ちを私に打ち明けるのではないかと
考え始めました。
その考えは当たりました。Mの口から、お嬢さんに対する思いを私の鼓膜に打ち付けたのです。
私はただ「そうか」と言いました。言いたくても言えなかったのです。
Mは、言いにくかったことを打ち明けたせいか、少し唇が震えていました。
私の心は、Mの唇以上に震えていたのは言うまでもありません。
それから私もMに自分の気持ちを打ち明けようとなんども試みました。しかし出来ませんでした。
ここで打ち明けていたら、今こんな手紙を書く必要はなかったと思います。
私はどうしてもやりきれない気持ちになって、最後の手段にで出る決心をしました。
Mがいようと誰がいようと、お嬢さんを好きな気持ちは変わりません。最後の手段に出る決心を
固めたのです。
それには、お嬢さんとMが邪魔でした。ワトソンさんと二人きりになる時間がほしかったのです。
Mがいないと思うと、お嬢さんがいる。お嬢さんがいないと思うとMがいる…というように、
二人いっぺんにいなくなる時間はなかなかありませんでした。
とうとう私は、仮病を使うことにしました。頭痛がするといって学校を休むことにしたのです。
お嬢さんもMも「大丈夫?」と心配しながら学校に行きました。
これで、邪魔な者はいなくなりました。
あとは私次第です。すると、「加減はどうか?」と言いながら、ちょうどいい具合に
ワトソンさんが部屋に入ってきたのです。
「だいぶよくなりました」
もとから仮病なのですから、加減もどうもありません。ワトソンさんは
「そう、それは良かったこと。今日は一日お休みなさい」
と言い出て行こうとしました。
―――チャンスは今しかない! 咄嗟にそう判断しました。
「ワトソンさん! 待ってください!」
部屋から出ようとするワトソンさんはこちらを振り返りました。私は布団から起きあがり正座を
しました。そんな私に気づいたのか、ワトソンさんも私と向き合って話を聞こうとしてくれました。
「なんです?」
抑揚のない声が私の耳に響きました。本当に病気になるのではないかと思うくらい、
私は緊張しました。手のひらが汗でグッショリだったのを覚えています。
私は突然。
「ワトソンさん。お嬢さんを私にください」
ワトソンさんは、私の予想したより驚きの表情は見せませんでした。それでも驚いたのか、
しばしじっと私の顔を見つめ、なかなか喋り出しませんでした。
「ください。私の妻としてお嬢さんをください」
ワトソンさんはやっと口を開きました。
「あげてもいいですが、急じゃありませんか?」
「急に欲しくなったのです。ください。ください。是非ください」
そうして、
「よく考えたのですか?」
と強く念を押されました。言い出したのは突然だったけれど、考えていたのは突然ではないと
強く主張しました。
それから、いくつか聞かれたのですが、気持ちも動揺していたため、何を聞かれたのか
はっきり覚えていません。
「よござんす。あげましょう。ご存知の通り、あの子は父親のない不憫な子です。あげるなんて
さしでがましい。どうぞ貰ってやって下さい」
今後どうするか話をすすめました。話を進めるのもよいけれど、まだお嬢さん本人の気持ちを
確かめていないのだから、本人の気持ちを確かめることが先決だと言いました。
奥さんはその必要はないと言います。
「大丈夫です。本人が不承知のところへ私がやるはずありませんから」
と私に、にこやかに言ったのです。
夕方になると、何も知らないお嬢さんとMが帰宅しました。私の気持ちは、ワトソンさんが
お嬢さんに直接話してくれるというのです。私もそのほうが助かりました。
夕食には、お嬢さんは姿を現しませんでした。部屋に引きこもっていたのです。
Mは「お嬢さんは?」と不思議そうな顔で聞きました。
「おおかた、間が悪くなったのでしょう。放っておいた方がいいのよ」
そう、意味ありげな笑いを浮かべ、私のことをチラッと見ました。
Mは不信な顔をしていました。
お嬢さんのことはともかく、私はどうMに打ち明けたらよいか迷いました。
祝言を挙げるとなっては、Mに言わないわけにはいきません。Mはどんな反応をするのだろう?
そればかりが気になって、私は言えずに2,3日を過ごしました。
5,6日たって、ワトソンさんはMにあのことを話したのかと、突然聞いたのです。
まだ話していないと答えたら、
「てっきり話しているものばかりだと思って、その話をしたら、変な顔をしていましたよ。
いつもあんなに親しくしているんですもの。いくら照れくさい事だからと言って、
黙って知らん顔とはあんまりですよ」
私はそのときMは何か言わなかったかと、食い入るように質問しました。
「別に…ただ、おめでとうございますって。お祝いをあげたいけどお金がないからあげられません。
私にあるのは解剖の本と薔薇の花だけですからと冗談半分に言っていただけですよ」
「そうですか…」
ワトソンさんがあのことを話してから数日が経ちました。
とうとう私は、Mに何も言えませんでした。Mはどう思っているのだろう?
Mの気持ちを知っていながら、私はMを出し抜いたのです。自分はお嬢さんに対する気持ちも打ち明けずに…。
私は策略で勝っただけで、Mには負けたのだ。人間として負けたのだ。そう思えました。
正々堂々と立ち向かうなんて言葉は、このときの私の辞書にはありませんでした。
Mの態度はいつもと変わりませんでした。薔薇の花を育てることにいつもより一生懸命に
なったことの他は、何の変化もありませんでした。もちろん私にも何も言ってこない。
私が言うのを待っているのだろうか…。
これからどうしようか…。いまからでも遅くはない、打ち明けようか、謝ろうか…、
布団の中で日々迷っていました。
ある晩トイレに行くとMの部屋にはまだ電気がついていました。電気に照らされて、
Mの育てている薔薇が照らされており、障子がほのかに赤く色づいていたのです。
(紫の薔薇ばかり育てていたが、今度は赤い薔薇も育てるようになったのか)
そう思い私は深い眠りに落ちました。
次の朝、昨日遅くに寝たにも関わらず、早く目がさめました。やっと夜が明け、
明るい光りが廊下に射し込んでいました。
Mの部屋の前を通ると、電気がついていた、さてはまた、夜中まで薔薇の手入れをしていて、
そのまま寝てしまったのだと思い、電気を消すために障子をあけました。
真っ赤な色が目に飛びこんで来ました。赤い薔薇の花の色? そうじゃない!
、Mは頚動脈を切って、薔薇の赤よりももっと赤い血を流し、死んでいたのでです。
夜中、トイレに行ったとき障子に映っていた赤い色は薔薇の赤ではなくて、血の赤だったのです。
私はその場に立ちすくみ、動く力も考える能力もまったくありませでした。
暫くその場に立ちすくんでいると、机の上に2通の手紙があるのが分かりました。
言うまでもなく遺書です。1通は私宛て。もう1通は家族宛てでした。
遺書には封はしてありませんでした。
私は急いで手紙を広げました。内容は完結でした。
『今まで世話になった。自分はバラだから生きていく資格はない』
と書いてあったのです。「バラ」は「バカ」の間違いだと思われます。
私はてっきり、自分に対する出し抜きのことを遺書に書かれているのではないかと心配しました。
そのことがもし、お嬢さんやワトソンさんに知れたら…、私はこのときMのことよりも
自分の世間体のほうが大事だったのです。ですが、そのようなことは一つも書かれていなかったのです。
安心して、手紙をもとあった場所に戻しました。
それから、警察を呼び、Mの遺体を処理しました。奥さんやお嬢さんを傷つけないように、
十二分な配慮を配りました。もとから、Mは変わり者だったので、遺書に残したとおりの言葉で
自殺したと誰もが疑いませんでした。
Mの葬儀が済み、その年に私は学校を卒業しました。Mを裏切って、私は晴れてお嬢さんと
夫婦になったのです。もうお嬢さんではないので、これからは妻と呼びます。
何も知らない妻は、「二人でMの墓参りに行こう」と言い出しました。
お分かりのとおり、それは私にとってどんなに苦しかったことでしょう。しかし妻は何も知りません。
「きっとMも喜ぶだろう」と妻は嬉しそうに言うのです。
私は断る理由も見つからず、2人で墓参りに行きました。妻はMが薔薇の花が好きだったといって、
真紅の薔薇の花束をMの墓前に供えました。
死んでしまった者はもう戻ってこない。何も言うことも、罵ることもできない。
私は妻を手に入れることによって、大切な友人も失ってしまったのです。失うどころか、
私がMを殺したのです。
私は卑怯です。Mに最後の最期まで、自分の気持ちを伝えることは出来ませんでした。
Mだけでなく、妻にも結局このことは言えませんでした。言うと妻が苦しむからです。
私は妻を残して死にます。妻がこれから暮らしてい来る財産は十分にあります。
生活に困ることはないでしょう。妻には、私は頓死したと思わせておきます。
もとから私は風変わりな所がありますから、狂い死にしたと思わせたいのです。
最期まで私は卑怯です。なんの関係もないあなたにこうして告白しているのですから…。
そして最期まで妻に知られたくない…、妻の過去はきれいな、純白のものにしておきたのです。
どうぞ、妻が生きている限り、この手紙はあなたの腹の中にしまっておいてください。
〜終わり〜
参考文献:夏目漱石 こころ、天河パロ「こころ」