夢の雫、薔薇色の烏龍
(ゆめのしずく、ばらいろのウーロン)


11.ルメリ要塞

 またもや、イブラヒム邸が騒がしかった。
 ヒュッレムが後宮からいなくなったというのだ。ハマムに入っている最中に突然姿が消えたという。
後宮内部の様子はわからないが、サハルを始め女官たちが探し回り大騒ぎらしい。
 ヒュッレムがいなくなった話を聞き、すぐにイブラヒムは、シャフィークを連れて屋敷を出た。
ほぼ間違いなくギュルバハルの仕業である。今まで何人もの側室がボスボラスの海に沈められたと
いうから、ヒュッレムも同じくボスボラスに沈められるかもしれない。
 夜遅くになっても、ヒュッレムはもちろん、イブラヒムもシャフィークも戻ってこなかった。
 ヒュッレムは生きているのだろうか。イブラヒム邸にも緊張が走る。
「こんな遅くまで帰ってこないということは、アジア側の別邸にいるのかもしれません」
 メフメトが心配そうにいった。
「別邸?」
「はい、ここのお屋敷以外にいくつか別邸があるんです。その中の一つにいるのかもしれない」
 メフメトは、ボスボラスの方角を見つめる。
「ラムセス、夜が明けたらアジア側のスクタリの別邸に様子を見に行ってもらえませんか?」
「俺がか?」
「はい、行き方は詳細に説明します。朝一番の船がありますからそれに乗って
アジア側のスクタリの別邸に行ってきてください。今日はもう遅いので休みましょう」
「わかった。明日の朝、スクタリの別邸とやらに行けばいいんだな」


 翌朝、夜が明けると同時にラムセスはイブラヒム邸を出た。
歩いてボスボラス海峡へ行き、エミノニュという船の乗り場からフェリーに乗ってスクタリまで行く。
スクタリ(現ユスキュダル)は商工業とも盛んな都市である。1453年のコンスタンティノープルの陥落後は
イスタンブルと共に発展し、アナトリアの隊商貿易の終着駅として栄えた街である。
 ラムセスが乗ったスクタリ行きの船は、朝一番であったが、何人か船を利用する者があった。
 エミノニュから船が出ると、海にぽっかり浮かぶ、小さな塔があった。




 一緒に乗り合わせた人にあの塔はなんだ?と聞くと、クズ・クスレィ(乙女の塔)といって、
小さな島に昔から建っている塔なのだとういう。灯台として使われていることもあるらしい。
ラムセスの風貌を見て外国人だと思ったのか、丁寧に教えてくれた。
 乙女の塔を過ぎ、アジア側にはすぐについた。メフメトの書いてくれた地図を見て
イブラヒムの別邸には迷うことなく着いた。

「ここだな」
 別邸といっても、大きな屋敷であった。あまり使われていないせいか、庭の手入れは少々怠っている感じであった。
入口には誰もいなかったので、そうっと門をくぐり、建物に一歩踏み入れた時、
ラムセスの耳に飛び込んできたのは悲鳴であった。
「ぎゃあああ」
 ラムセスは一瞬、硬直する。
 男の声のようである。イブラヒムの声ではない。続いて女の声が聞こえた。
「イブラヒム様、、シャフィークを殺してはだめ!」
 必死に叫ぶヒュッレムの声であった。
 ラムセスは足音を立てないようにして、そうっと騒ぎの方向へ近づく。
 部屋にはイブラヒムとヒュッレムとシャフィークの3人がいた。床に剣の刺さった二人の
人間が倒れている。身動きしない、もう絶命しているのであろう。
「シャフィークはたとえ声が出せても、イブラヒム様のおためにならないことは
しゃべりません。わたくしは覚悟はできております」
 ガウン姿のヒュッレムがシャフィークを殺さないないよう、イブラヒムに懇願している。

 これは……だいぶヤバイ現場なんじゃないか。

 ラムセスは後ずさりする。この現場から推測すると、二人の殺された男は口封じのためだろう。
イブラヒムにとって腹心の部下であるシャフィークまで手をかけようとしたということは……。
 ガウン姿のヒュッレムの姿を見てラムセスはすぐに状況を把握する。

 ――イブラヒムとヒュッレムは過ちを冒してしまったのだ。

 ヒュッレムはスルタンの寵姫。その寵姫と一夜を過ごしたとあっては、二人の命は間違いなくないだろう。
 しばらくすると、イブラヒムの穏やかな声が聞こえる。

「あなたには生きていただきたい。死んでほしくない」と。
 
 ラムセスは足音をたてないよう、そうっと後ろに下がる。
 遺体を動かしているのだろうか、重いものを引きずる鈍い音が部屋から聞こえる。
部屋の中をもう一度ちらっと見たとき――シャフィークと視線が交差した。
 鋭い目つきでラムセスを見つめる。

 ――帰れと。

 穏やかなシャフィークからは想像もつかない背筋も凍るような視線で合った。
その鋭い視線には決して口外するなという意味も含まれているようにラムセスは感じ取った。
 ラムセスはシャフィークに背中を向けて、逃げるようににイブラヒム邸を出た。
もう後ろは振り向かない。まっすぐ前を見る。
 すぐにスクタリから脱出しなくては。
 ここに来たという事実があるだけで、もしかしたらイブラヒムに疑われるかもしれない。
殺されるかもしれない。ラムセスは一度も休むことなく、船着き場まで走った。
 フェリー乗り場に着くと、もうすぐ船が出向するところであった。船の本数は少ない。
これを乗り逃がしたら、もしかしたらイブラヒムとかち合ってしまうかも知れない。
「俺も乗るー。待ってくれー!」
 ラムセスはフェリーに向かって手を振った。
 なんとかフェリーに乗れた。
 どうしようか、メフメトに何と言おう。俺は道に迷ってスクタリにはいけなかったことにしようか。
でも、スクタリまでの行き方はとても簡単で迷うとところがない。
上手くメフメトをごまかせるかな……?
 ラムセスが首をかしげていると、ゴトンという振動と共に船が動き出した。
ふと、ラムセスは不思議な感覚に見舞われる。思った方向と逆の方向に動き出したからだ。
 ま、まさか――。
「もしかしてこの船は宮殿行き…・・エミノニュ行きじゃないのか?」
 乗り合わせた傍の人に聞く。
「この船はキュチュクス行きだよ。お兄さん、エミノニュは反対方向だよ」
「えっ!」
 ラムセスは船着き場を見る。もう船は出向していて戻ることはできない。
「ど、どうしよう。帰れないじゃないか……。次の波止場はどこだ?」
「次はクズグンジュックだが……エミノニュに帰りたければ、この船にずっと乗っていれば着くよ。
時間はかかるけどね」
「は?どういうことだ?」
「この船は巡回船だから、まっすぐボスボラスを進んで、アナドルヒサルまで行ったら
エミノニュに引き返すんだよ。もし時間があるなら観光を兼ねてずっと乗っていればいいんだよ」
 教えてくれた親切な人は、ラムセスが外国人だと思ったのだろう。
ラムセスはこのままボスボラスクルーズをすることに決めた。
「そうか……そうだな」
 ラムセスは、間違えて逆方向の船に乗ってしまったため、スクタリのイブラヒム邸には行けなかったと
いう理由を思いついた。スクタリの屋敷に着いた時にはもう誰もいなかった。
この理由でメフメトに説明しようと思った。
 スクタリを出てアジア側は住居も多かったが、緑が多かった。のどかな風景がラムセスのオッドアイを通り過ぎる。
「そろそろ船が引き返しますよ」
 一緒に乗り合わせた人が教えてくれる。先ほど船の行き先を教えてくれた人とは別の人物だった。
この世界の人間は随分親切だ。
 ラムセスの目に興味を引く建物が目に入った。
「あれは何だ!」





 ボスボラスの左右対岸にあるこげ茶色の城壁を指してラムセスは叫ぶ。
「アナドルヒサル(ヒサル=要塞)とルメリ・ヒサルだよ。初めてみたのかい異国の方?」
「ああ」
「1452年にメフメット二世が建設した要塞で、コンスタンティノーブル攻撃の時に建てられたんんだ。
この先の黒海からの侵入を防ぐために建てられた要塞だよ。当時、たった三ヶ月で完成させた
即席要塞らしいが、立派なものだろう。」
「ああ、すごいな。カッコいいな」
 ラムセスは要塞に見とれる。特にヨーロッパ側にあるルメリヒサルが素晴らしい。
茶色い城壁が海から小高い丘の上向けて蛇のように続く。丘の上には砲台を兼ね備えた
強固な要塞。修復はされているだろうが、この時代より100年以上も前に建てられた要塞
だというのでそれも驚きだ。あんな要塞の中で戦ってみたい。軍人であるラムセスはそうも思った。
 アナドルヒサル、ルメリヒサルを経て、今度はボスボラスのヨーロッパ側を船は進む。
のどかで庶民的だったアジア側と違って、ヨーロッパ側は貴族の別荘が多く立ち並ぶ。
美しい緑の中に、豪華な邸宅がポツリポツリと建っていた。
 エミノニュに近づくにつれて、徐々にラムセスの見慣れた街の景色が戻ってくる。
朝早くエミノニュを出たのに、戻ってきたときにはもうお昼前だった。


「もう、ラムセスのバカバカバカ! どうして逆方向の船になんて乗るんです!」
 メフメトのお説教が聞こえる。ラムセスはすまないと頭を下げるばかり。
 船着き場まで行ったはいいが、逆方向の船に乗ってしまい、スクタリに着いたのは
随分遅くなってイブラヒムもシャフィークもヒュッレムもいなかった。とメフメトに伝えた。
「ラムセスが帰ってくるよりずっと前に、イブラヒム様もヒュッレム様もお戻りになりましたよ!
まったく。ラムセスは一体何をしに行ったのです!」
 メフメトはまだ怒っている。
「で、二人の様子はどうだ?」
 ラムセスはメフメトに感づかれないよう、何気なく聞く。
「お二人ともご無事ですよ。まあ、お二人ともちょっとお疲れのご様子でしたけれど……。
ヒュッレム様はもう後宮に、イブラヒム様はスレイマン様のお呼びで新宮殿に行かれました」
「そうか……。シャフィークは? 何か俺に……伝言とかないか?」
「そんなものありません。シャフィークも一緒に戻ってきましたよ。
少し休んで、ヒュッレム様と一緒に後宮に戻りました」
「そうか……」 
 メフメトには気づかれないよう。なるだけ興味がなさそうに聞いた。
 シャフィークはラムセスの姿を見たはずだ。もし、口封じに殺されるならもう行動を起こしているはずである。
見逃してくれているのだろう。今日の事を黙っているという条件で。

 本当はスクタリのイブラヒム邸に行ったこと。
 そこで何があったかわかっていること。
 これは、いくら仲の良い、世話になったメフメトにも言うことはできない。
 なんの為かは今はわからない。そしてその秘密が、今後どう歴史を変えていくかもわからない。
それがこの世界で生きていくための必然だから……。
 ラムセスはこの世界に来て一つだけ、誰にも言うことのできない秘密を抱えた。



***
11ページ目のあとがき
やっと4巻まで行きましたー。
この後は、ラムセスはイブラヒムと一緒にロードス島遠征に行く予定です。
行く予定なんですが、私自身ロードス島のこと全く知らないため、少々調べないと書けないかも。
なので次ページの更新は少し間が空くかな?
というか、ラムセスがオスマン帝国にタイムスリップするという話を思いついて、
サイドストーリーとしてお話を考えていたのが、ここまでなんだな! わはは。
ロードス島でイブラヒムがと一緒にラムセスがカッコよく活躍するためにねねがんばります!
それでは、また(^_^)/~





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