nene's world オリジナル小説
エミリアノート


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6.自己紹介

 レオナルドとウィルの後について赤い絨毯の廊下を歩いてゆく。
 何度か角を曲がり、王宮の奥まで入って行った。
 同じような扉がいっぱいあったが、やはり部屋の名前は書いていなかった。
 迷路のような廊下をエミリアとサラは進んでゆく。
 帰りに一人で帰れと言われたら、方向音痴の自分は確実に迷ってしまうだろう。
エミリアは必ずサラと一緒に帰らなければならないと思った。
「ここが私の部屋だ」
 レオナルドとウィルが扉を開け、部屋に入って行った。
「お邪魔致します」
 エミリアとサラは緊張した声色で挨拶して彼らの後に続いた。
 目の前の部屋に二人は息を呑む。
 二人の視界には豪華な部屋が広がっていた。
 エミリアは貴族の出身で、医学校に入れる程度の裕福な家庭で育ったが、はやり王族は違う。
 テーブル、ソファ、暖炉、クローゼット、本棚。どの調度品をとっても高級なものだとわかった。
 決して新しくはないが、いいものであることはエミリアとサラでもわかる。二人は部屋を見回し、感動で声も出なかった。
「そんな所に立ってないでこちらへどうぞ」
 ウィルが二人にソファへ座るようにすすめる。テーブルを挟んでレオナルドとウィルに向かい合って腰かけた。
「本当に今日はこんなことになって申し訳なかった。えーっと二人のことはなんて呼べばいいかな……」
 レオナルドが困ったように言葉を濁した。
「エミリアでいいです」
「私もサラと呼んでください」
 エミリアとサラは即答する。
『先生』と呼ばれることだけは避けたかった。
第四王子付きの宮廷医にはなったが、まだ見習いの身分だ。
「では、エミリア、サラ。今日は兄上が本当に申し訳なかった。
病で身体が自由にならないせいか、時々、今日のようなことを命じることもあるんだ。でも本当はいい兄なんだ」
「はい」
 エミリアとサラは静かに返事をする。
「じゃあ、まずは自己紹介でもしませんか? お互いのことをよく知らないと何もはじまりませんよ」
 ウィルがにこやかに笑う。整った笑顔がまるで絵のように美しかった。
「じゃあまずは私から自己紹介だ。第四王子のレオナルドだ。
隣にいるのが従兄弟のウィル。ウィルの母と私の母が姉妹だ。
生まれてすぐに母が亡くなったので、ウィルの母、マリー伯母さんが母親代わりになって私を育ててくれた。
だからウィルとは兄弟のように育ったんだ」
「そうそう。レオナルドのことはずっと本当の弟だと思って育ったんだ。
違うって知った時はショックだったなぁ〜」
 ウィルが昔を懐かしむように宙を見て言った。
「なんでお前がショックを受けるんだ。私はウィルが兄ではなく従兄弟だって物心ついた頃から知っていたぞ」
「そうなんだよ。普通、そういう出生の秘密を聞いてショックを受けるのは当人のはずなのに、
本人はずっと前から知っていたんだ。俺だけ知らなくて、それにもショックを受けた」
 ウィルががっくりと項垂れる。きっと幼少の頃のことだと思うが本当にショックを受けたのだろう。
「私は小さい頃から女官たちのひそひそ話を聞いて育ったからな……。
ウィルと本当の兄弟のように育ててくれたマリー伯母さんに感謝してる」
 レオナルドはエミリア達の一つ年上で18歳。ウィルはもう一つ年上で19歳だという。
 ウィルの父は、王を補佐する4人の宰相のうちの一人だという。
 王子であるレオナルドの身分が高いのはもちろんだが、宰相の息子であるウィルの身分も相当なものだ。
 宰相である父を継ぐ仕事を教わっているという。
「俺たちだけで喋ってしまってはいけないな。じゃあ次は女医さん方どうぞ」
 ウィルが二人に笑顔を向けた。
 サラに肘を小さく突かれ「エミリアから先っ!」と言われたので、
自分から先に自己紹介をすることにした。
「エミリア・ルッジェーロです。この春、王宮の医学校を卒業して、
宮廷医の見習いとなりました。専攻は内科です」
「サラ・フラカストロです。エミリアと同じく医学校を卒業しました。
専攻は薬学と眼科です。よろしくお願いします」
 二人が頭を下げると、レオナルドとウィルも笑顔で「よろしく」と挨拶してくれた。
「あの……レオナルド様付きの宮廷医になったので、今までの病歴をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 エミリアは鞄からノートを出した。あとでレオナルド用のカルテを作ろうと思っている。その下書きである。
「ああ、いいぞ」
 レオナルドは笑顔で頷く。
「レオナルド様は幼少の頃、お体が弱かったと聞きました。どのように具合が悪かったのでしょう?」
「せきがたくさん出て、胸の辺りがヒューヒュー、ゼイゼイして呼吸が苦しくなるんだ」
「ぜん息ですね」
「ああ、当時の宮廷医にもぜん息だと言われた。色々と薬は試したが、効いたという感じはなかったな。
眠れないくらいひどい発作のときもあって、起き上がって前屈みになった状態でないと呼吸ができないこともあった」
「ああ、小さな頃、レオナルドが発作を起こした時には本当にビックリした」
 ウィルが心配そうに言った。
「マリー伯母さんにも苦労をかけたな……」
「そのせいでで、短命の王子なんて言われていたもんな」
 ウィルが噴き出しながら笑う。
「でも、そのおかげで命を狙われることはなかったな。
帝位から遠い病弱な王子だと女官たちが噂してくれたおかげだ。
大人になると発作も殆どなくなって、今は風邪をひくとせきが長引くくらいだな」
「子供の頃のぜん息は大人になるに従って、症状が軽くなる場合があります。それが当てはまるかもしれません」
 エミリアは納得しながら、ノートに書き留める。サラも隣で頷いていた。
「小さな頃は、ぜん息の発作が出るといけないからって、あまり外に出してもらえなかったんだ。
けれどある日、「ぜん息を治したければ外に出て日光を浴びたほうがいい、
できれば運動もしたほうがいい」とマリー伯母さんに助言した者がいたんだ。
それからウィルと一緒に外で剣や弓の稽古を一緒にするようになった」
 レオナルドはまっすぐエミリアを見つめて笑った。
「そうですね。太陽の光を浴びることは体にとっても心にとってもいいと言われています。最近、発作はありますか?」
「ここ数年はない」
「せきが多く出る時期はありますか? 例えば季節の変わり目とか……」
「そういえば……春から夏、秋から冬になるときは、発作はないがゼイゼイと苦しいことが多いような気がする。よく知っているな」
 レオナルドは感心したようにエミリアを見つめる。
「今日はどうですか? ちょうど冬から春への季節の変わり目ですが……」
「うーん、そう言われると少しゼイゼイするような気が……」
「そうですか。じゃあ、お胸の音を聞きましょう。上着、脱いで頂けますか?」
「えっ?!」
エミリアは笑顔でさらりと言う。それに対してレオナルドは時間が止まったかのように表情を強張らせていた。
「全部脱がなくてもいいですよ。厚手の上着を脱いで頂ければ……」
 エミリアはにっこりと笑う。その横でサラも笑顔で頷いていた。
「レオナルド、どうした? 前の宮廷医にも何度も胸の音を聞いてもらったことあるじゃないか、早く脱げ」
ウィルはニタニタと笑いながら言う。
「あ、ああ。胸の音を聞くんだな。わかった」
 レオナルドはぎこちなく上着を脱ぎ始める。その様子をウィルがニタニタと笑いながら伺っている。
上半身裸になったレオナルドは姿勢を正す。
「失礼いたします。レオナルド様」
 エミリアは聴診しやすいよう、黒い髪を一つに束ねる。
 耳に髪をかけながらレオナルドの前までいき、床に膝をつく。レオナルドの胸に右耳をピッタリとくっつけて目をつぶる。
「今、呼吸の音は正常ですね。では、少し大きく深呼吸して頂けますか?」
「ああ」
 エミリアはレオナルドの胸に軽く胸に手を添えて、耳をぴったりとつけて音を聞いている。
 レオナルドは言われた通り深呼吸を繰り返していると、
なんだかエミリアに触れられている部分が徐々に熱くなってきているような気がした。
まだ汗をかくような時期ではないのに、顔が火照ってきているのがわかった。
なるだけエミリアのほうを見ないように視線を漂わせていると、
ウィルと目が合った。ニタニタとこちらを見つめて笑っている。
「あら? どうしたのかしら? ええっ!」
 エミリアが一度、レオナルドの胸から耳を離し、もう一度ピタリとくっつける。
「どうかしたのか?」
 レオナルドが聞くと、エミリアは顔だけレオナルドのほうを向いて真剣な表情になる。
「ぜん息……呼吸の病気をお持ちだと聞きましたが、
レオナルド様の鼓動も少し早いような気がします。レオナルド様は心臓のご病気もありますか?」
「い、いやっ、ないはずだが……」
 レオナルドはエミリアから体を遠ざける。これ以上、胸の音を聞かれたくなかった。
「ぷっ、ふふふ……顔が真っ赤だぞ、レオナルド」
 隣でウィルが噴き出し、必死に笑いを堪えていた。サラも口を手で押さえクスクスと笑っていた。
 エミリアは「呼吸だけでなく心臓もこれから診ていかないと……」と呟きながらノートに書き留めていた。
「も、もう服は着ていいかな?」
「あ、どうぞ、もう終わりました」
 レオナルドはウィルたちに気づかれないようゆっくりと深呼吸をする。
ぜん息の発作は出ていないのに、胸が苦しいような気がする。
なんとかこの場の空気を別の方へ持っていかなければならないとレオナルドは考えた。
「そうだ、今日は二人にトイレ掃除をさせてしまって本当に申し訳なかった」
 上着を着たレオナルドは改めて二人に頭を下げた。
「そんな、謝らないでください、レオナルド様。本当に大丈夫です」
 頭をさげるレオナルドに恐縮し、エミリアとサラは立ち上がる。
「兄上のことを悪く思わないでくれるとありがたい。
私のぜん息も兄弟の中で一番心配してくれたのはアルフレッド兄上なんだ」
「悪く思ったりなんてしません」
 二人は笑顔で頷いた。
 エミリアはふと考える。アルフレッドについてどうしても気になることがあった。
レオナルドに聞けば何かわかるかもしれない。
「あの、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ? エミリア?」
「アルフレッド様はいつからあのようにお水をお飲みになられるようになったのですか?」
「うーん、確かには覚えていないが、2、3年前からかな?」
 レオナルドは思い出しながら言った。
「そうですか。手や足に包帯を巻いていますがあれはどうしたのでしょう?」
「詳しくは聞いたことないんだが、傷がなかなか治らないと言っていたような気がするが、確かではない」
「そうですか……」
 エミリアは顎に手をあてて考える。
 トイレ掃除をしたときのことを思い出す。
 蟻が集まる尿、果実に似た腐敗臭。大量に水を飲み、傷の治りが遅い。それらから考えられることは……。
「もう一回、トイレ掃除できないかな?」
「は?」
 エミリアの呟きにサラが振り向いた。
「もう一回、アルフレッド様のトイレ掃除がしたい。もう一度、怒らせればトイレ掃除できるかしら?」
 エミリアは腕を組み眉間に皺を寄せて考える。サラはエミリアの発言に驚いて目を丸くする。
「もう一度、皇太子殿下を怒らせるなんてことしたら、今度こそ宮廷医をクビになるよ。ダメダダメ!」
 サラはエミリアの両肩をがっしりと押さえて、驚愕の表情で首を振る。
「そっか……やっぱりダメか……」
 エミリアは残念そうに肩を落とす。
「ど、どうしたんだ?」
 二人を見たレオナルドとウィルが不思議そうな顔をしていた。
「あの……もういちどアルフレッド様のトイレ掃除をすることはできないでしょうか?」
「は?」
 エミリアの質問にレオナルドとウィルは同時に声を上げる。
「どうしても確認したいことがあるんです。それがわかればアルフレッド様の病の原因がわかるかもしれないんです。
もう一度、トイレ掃除をさせていただけないでしょうか?」
 エミリアは真剣であった。その隣で少々呆れ気味にサラが溜息をつく。
「うーん、罰のトイレ掃除をもう一度するのもなんだかなぁ〜」
 レオナルドが難しそうな顔をする。
「一体、君たちは何をしたいんだい?」
 ウィルにたずねられる。
「えっとですね、ちょっと大きな声では言えないのでお耳を……」
 エミリアは立ち上がり、正面に座っているレオナルドとウィルに小さな声で要件を言った。
「え゛っ!!」
 エミリアから話を聞いた二人は、似ている顔を同じように歪ませた。
「そ、それならわざわざ掃除をしなくとも、ススルタに頼めばいい」
「ああ、そうだ。頼んでもってこさせればいいんだ」
 二人は驚きを隠せない表情をしていたが、なんとか解決策を導いてくれた。
 再び掃除をするのではなく、アルフレッドのトイレ掃除を担当しているススルタにこっそり頼むことにした。
「しかし、兄上の尿が欲しいなんて一体何をするのだ?」
「ええと、それは……ある道具を使ってアルフレッド様の尿を見てみたいんです」
 エミリアの隣でサラが「ああ、あれね」と小さく呟いた。
「ある道具って?」
 レオナルドは首をかしげる。
「はい、顕微鏡です!」
 エミリアは笑顔で言った。
「けんびきょう……聞いたことないな。何をする道具なんだ?」
「ものが大きく見える道具です」
「それは望遠鏡とは違うのか?」
「はい、違います。遠くの景色ではなく、目に見えないくらい小さなもの見る道具なんです」
 エミリアは丁寧に説明する。レオナルドはどんなものか想像がつかず不思議そうな顔をしていた。
「レオナルド、そろそろ時間が……」
 ウィルは背の低い本棚の上に乗っている置時計を見た。
「ああ、もうそんな時間か。アラビア語の先生のところに行く時間だな……」
 レオナルドは置時計に視線を移し残念そうな表情になる。
「アラビア語!? レオナルド様、アラビア語がわかるんですか!」
 エミリアが驚きの余り、高い声を上げた。黒い瞳が輝く。
「わかるというか、今勉強中だ。簡単な会話ならできると思うぞ」
「すごい……」
「一応これでも王子だからね。他国のお偉い方と接する機会があっても
困らないように語学だけは小さな頃から叩き込まれているんだ。
英語、イタリア語、フランス語、スペイン語も大丈夫だぞ」
 ウィルがレオナルドの頭をポンポンと叩く。
「レオナルド様! 今、アラビア語の論文を読んでいて、訳せなくて困っているんです。
あの……ここの部分はどうやって訳したらよいのでしょう?」
 エミリアは鞄の中から本を取りだしてページを開く。
「ちょっと、エミリア。図々しいってばっ!」
 サラに腕を引っ張られ、エミリアはハッとした。
「いや、構わないぞ。どこの部分だ?」
 レオナルドはエミリアが手にしている本を覗き込む。
「ここの5行目です」
「ん……えっ、これはええと……多分こういう意味だと思う。うっ、この単語は……ちょっと知らないな……」
 レオナルドは苦戦しながら訳す。医療の特殊な単語が使われているので分からない部分があったのだ。
「すごい! ありがとうございます。あの……またお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 エミリアは本を閉じながら遠慮がちに聞いた。
「ああ、いいぞ」
「本当ですか! ありがとうございます」
 レオナルドの笑顔にエミリアは感動し本を抱きしめて喜んだ。
「じゃあ、そろそろ部屋を出ようか。アラビア語の先生のところへ行くついでに二人を送って行こう」
 ウィルが部屋を出るように促した。
 廊下を出て、レオナルドとエミリアが並んで話す。
アラビア語についてエミリアは聞きたいことがいくつもあった。
エミリアの隣にサラが並ぶと、背中の服が引っ張られた。驚いてサラは後ろを振り向いた。
「な、なに……?」
 服を引っ張っていたのはウィルであった。不機嫌そうな目つきでサラを見つめる。
「お前、空気を読め」
「は?」
 ウィルが小さく手招きしたのでサラは一歩近づいた。ウィルはサラの耳元で小さな声で囁く。
「レオナルドはエミリアのことを気にっている。そこにお前が入ってどうする!」
 サラはハッとして二人を振り返った。レオナルドとエミリアはこちらを振り返ることなく、
仲良く話しながら前を歩いて行く。エミリアも嬉しそうな表情だ。
 ――そういうことなのか。
 ウィルに言われてサラは初めて気づいた。
「ごめんなさい、やっぱり私ってダメなんですね」
「いや、別にいい。少し後ろから二人の後をついて行こう」
「いえ、本当にダメなんです。身分の高い方がいらっしゃる場での空気なんて、
私読めないんです。だって私は貴族の娘じゃないから……」
 サラは緑色の瞳を伏せて、泣きそうな顔になる。
「は?」
「エミリアは代々お医者さんの貴族の家系ですけれど、私は違うんです。
エミリアの家に勤める使用人の娘なんです」
 サラは完全に俯いてしまった。
「な、何を突然言い出すんだ。別に貴族だろうが、なんだろうが医者になるのに関係ないだろう。
王宮の医学校だって、身分は関係なく勉強できるはずだ」
「そうですけれど、医学校の厳しい試験に合格するには、それなりの経済力が必要なんです。
私のように平民出身の者は数人しかいません。
私はエミリアのお母様、トルトゥラ様のご好意で勉強させてもらったんです」
 サラは緑色の瞳に涙を浮かべながら言った。
 鼻をすすると腰まであるブロンドの髪が揺れた。
「ちゃんと医者になれたんだから、身分なんて関係ない。
それも宮廷医だ。そう簡単になれるものではないと聞いたぞ」
 ウイルは優しくサラの肩に手を置く。
「でもやっぱりダメなんです。こんな平民出身の私が、レオナルド王子や
宰相のご子息のウィル様のお側にいるなんてやっぱり無理なんです。
高貴な方がいらっしゃる場の空気なんて読めないんです」
「いやいやいや、これは身分とは何も関係ない。
そうだ、空気なんて読まなくていい。空気は読むものではない、吸うものだ」
 ウィルはサラの肩に手を置いたまま笑顔を作る。
 貴族とか平民とかそんなことは本当にどうでもいいと思っていた。
サラがそこまで自分の出自を気にする理由はよくわからないが、傷つける発言をしてしまったことは確かだ。
なんとか気持ちを上向きに持って言って欲しかった。
「レオナルド様付きの宮廷医は貴族の娘のエミリア一人で充分だと思います。
私はこれで失礼させていただきたいと思います」
「えっ! な、なんでだ。レオナルド付きの宮廷医をやめるってことか?」
「はい。王子殿下付きでなくとも、宮廷医の仕事はたくさんありますから……」
 サラがぎこちなく笑う。その笑顔がものすごく悲しそうに見えてウィルの心に何か刺さるものがあった。
「いや、やめなくていい。やめないでくれ! そ、そうだ。
俺の体調を管理する医者っていうのはどうだ? レオナルドは持病のぜん息もあるし、
内科が専門のエミリアに任せておいた方がいいだろう。サラは俺の担当医になってくれ!」
 自分の失言のせいでサラが辞めたなんてことになったら、
レオナルドにボコボコにされるに決まっている。なんとかサラを引き留めなければならない。
「ウィル様は……どこもお悪いように見えませんが……」
 サラは頭のてっぺんからつま先までじっくりとウィルを見つめる。
「あ、ああ……そうだな。これと言って今、具合が悪いって症状はないが……」
 ウィルは必死に何か自分に調子の悪いところはないかと考えたが、これといった不調は見つからなかった。
 19年間、大きな病気も怪我もなく育ってきた健康体である自分を今ほど呪ったことはない。
「そうだ。確か薬学を専攻していると言っていたな。こんなのはどうだ? 
今はどこも不調はないが、夏になると虫に刺されてかぶれたり、冬になると風邪に悩まされたりすることがある。
そういう症状にならないよう、何か薬を調合してくれ」
「薬を調合……、病気にならないようする。予防ってことですか?」
 サラが不思議そうに何度も瞬きをする。先ほどの泣きそうな顔ではない。
「そうだ。予防の薬だ」
 ウィルは大きく頷く。
「それなら、ハーブティーや漢方薬がいいかもしれませんね。予防のためには適しています」
 サラの緑色の瞳がウィルに向かってにっこりと笑った。
 ウィルはサラの眼差しに釘付けになる。スッと通った鼻筋に緑色の大きな瞳。
くっきりとした目鼻立ちはなんとも美しい。王宮にも美人と噂される貴族の娘や女官が何人もいるが、
その中にいたとしても一、二を競うことのできる美人だ。
明るい茶系のブロンドの髪は緩くウェーブがかかり、まるでギリシャ神話に出てくる女神のようだった。
 ウィルは思わず数秒見とれてしまった。
「あの……どうかしましたか?」
 無言で見つめるウィルにサラは小さく首をかしげる。
「いや、なんでもない。そうだな……あと、剣術や弓の稽古で怪我をすることもある。
傷につける薬も調合してくれると助かる」
 苦し紛れにもう一つ浮かんだ。サラが納得したように頷いている。
「創傷治癒剤でよければいつでも……」
「ああ、よろしく頼む」
 ウィルが頷いたところで、廊下の向こうから二人の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 レオナルドとエミリアがこちらを振り返り、手招きしていた。
 ウィルとサラは顔を見合わす。ニコリとお互い笑い合い、早足二人へ向かっていった。

***

 レオナルドとウィルたちと別れた後、エミリアはサラと一緒に馬車で家に帰ってきた。
 王宮から家まで馬車で15分、歩くと40分ほどかかる距離だ。
 家に着いた頃にはもう夕方になっていた。山の稜線の向こうに見えるオレンジ色の太陽は沈みかかっている。
 エミリアは自分の部屋に帰って机に向かってノートを広げる。
 ノートには昼間書いたレオナルドの病歴が走り書きで書いてあった。
レオナルド用のカルテに清書する作業をこれから行うつもりだった。日付と症状をカルテに丁寧に書いてゆく。
 エミリアは途中でペンを止める。
 今日は思いもかけない一日だった。
 レオナルドに挨拶だけするつもりが、トイレ掃除をする羽目になり、
レオナルドの部屋にもお邪魔してしまった。随分とたくさんお話をしてしまったと思う。
最後にアラビア語まで教えてもらう約束までしてしまった。
 ――今日はなんて楽しい一日だったのだろう。
 このまま目を閉じるとふわふわと体が浮き上がってしまうのではないかというくらい気持ちが高揚している。
 この気持ちをどこかに書き留めたかった。カルテではダメだ。
私情を入れるなんて以ての外である。書くほどのことでもないのだが、
どこかにこの気持ちを残しておきたかった。
 エミリアは走り書きしたノートの余白に視線を落とす。

『今日はレオナルド様とたくさんお話ができて楽しかった』 

 小さな文字でノートに書くと、エミリアの頬は自然と緩んだ。
 次に王宮へ行く日がとても楽しみだった。

♪続く




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